光、溢るる
自分は幻術にかかっているに違いない、そうでなければこれは夢なのだ、と八戒は思った。
たった今開けた扉をそっと音を立てぬ様ゆっくり八戒は閉めた。
宿の中の騒がしさも、手に持った袋の重さも全て遠くの出来事のように感じる。
閉められた扉の前で買い物袋を幾つも持ったまま廊下に立ち尽くす八戒の姿は、他人から見ればかなり奇妙に見える事だろう。
普段の八戒は大抵の事では驚かない。
自身、平坦な人生を歩いてきた訳では無いからだ。
その八戒がこうも呆然となる程、扉の向こうにある光景はありえないものだった。
否、何も知らない他人から見ればそれ程の事では無いかも知れない。
しかし、八戒、恐らく悟空にとってもこの光景は到底信じられるものではなかった。
自分と悟空が買出しに出ていた間に一体何があったのだろう。
自分はどうしたらいいのだろう。
徐々に平常心を取り戻しつつあった八戒の元へ遅れて悟空が駆けてきた。
「はっ」
かぁーい、と続く言葉を、シッと唇に指を当て八戒は押し留めた。
訝しげに八戒を見る悟空の目は細められている。
そこへ、隣室の客が通りかかり声をかけた。
「さっきまでそこの部屋から凄い音がしてたけど、何かあったのかい?」
「いいえ、何でもありません。多分、大きなゴキブリでも出たんでしょう」
八戒は淀み無くその客に向かって答えた。
確かに凄い物音はしただろう。
八戒が見た部屋は、ここだけ台風でも通ったのかという程の惨状だった。
テーブルは曲がり、その上にあったカップや灰皿、その中身は床に散乱し、椅子は全て倒されていた。
きちんとベッドメイクされていた布団は丸まっており、
枕に至っては、側が破れ中身が部屋中に飛び散っていた。
「ゴキブリ?! この寒い時期にかい?」
「ええ、でもこの部屋にしか出ないですし、もう退治し終わったようですから御心配は要りませんよ」
にこやかに話す八戒に、首を捻りながらもその客は隣室に消えていった。
「八戒?」
悟空が八戒を見上げる。
微笑みだけで答えて先刻の続きを考えた。
知らなかった訳では無い、気付いてはいた、だがまだ先と言うかそんな事は起こらないのでは無いかという気さえしていた。
そして、このまま廊下に立っている訳にもいかないとようやく思い至った八戒は、
「悟空、もう一度街へ行きましょう」
と、黙って自分の顔を見続けている悟空に言った。
「買い忘れたモンでもあんの?いいけどこの荷物は置いて行こうぜ、邪魔だし重いし」
扉にかけようとした悟空の手をそっと止め、
「確かに重いですね、宿のご主人に預かってもらいましょう」
八戒はそのまま廊下を引き返し始めた。
何故部屋に置いて行かないのか、訳は分からないながら八戒に逆らえる筈も無く、悟空は部屋を振り返りつつ後を追った。
あの部屋で何があったんだろう、それに三蔵と悟浄はどうしたんだろう、気になりながらも聞いていいものか悟空は迷った。
だが、元来自分の気持ちに素直な性分の悟空は八戒の隣に駆け寄り聞いてみた。
「何もありませんよ、それに二人とも出掛けたようです」
三蔵と悟浄、あの二人で?と不気味に思ったが、八戒が嘘を吐く理由も思い当たらず悟空は取り敢えず信じた。
それから八戒は宿の主人に「留守番している人が鍵を持って出掛けてしまって」と言い訳をし、荷物を預かってもらった。
八戒と悟空の二人は再度街へ向かって歩き出した。
雪も降っておらず、冬の貴重な太陽が空にはあった。
夏のそれとは違い、優しい光。
こんな日はああいう稀有な事があっても良いのかも知れない、と八戒は思った。
八戒が閉めた扉の向こうには。
荒れ果てた部屋の中で、
両腕を広げ、床に仰向けに転がった悟浄と、
その悟浄の脇腹に頭を乗せた三蔵。
互いに顔に痣をつくり、穏やかな陽射しを浴びながら気持ち良さそうに眠る二人の姿があった。