― 誇 ―
薄暗い部屋の中で、三蔵は目を覚ました。
室内を見回す為に身体をよじると、激痛が身体中に走った。
まるで全身の骨という骨が折れているかのようだ。
無論、実際はそこまで酷い状態ではない。
折れていたとしてもせいぜい一本か二本、あとは全身打撲に数ヶ所の裂傷といったところだろう。
それでも充分重傷ではある。
旅に出た当初より、戦闘で負うダメージが大きくなってきている。
これから先もっと厳しくなることは火を見るより明らかだ。
機械でもあるまいし、神経の通った生身の身体で怪我をすれば痛いに決まっている。
痛いだけで済めばまだしも、いつか手足を、耳を、目を、命さえ失うこともありえなくはない。
そうまでして旅を続ける理由を問われれば。
薄暗さに慣れた目を凝らすと、天井の染みが見えた。
やがて染みは広がり、その色は褐色から赤へと変わる。
室内の空気は重く湿り気を帯び、血の匂いが鼻をつく。
それは昔見た光景にとてもよく似ていた。
忘れたことはない。
忘れるはずがない。
現実に起こった悪夢のような光景は、ドアが開けられるとともに消え去った。
見えるのは、水だか雨だかが漏れたのであろう染みの跡と、隅に張られたクモの巣だけである。
三蔵は、身体を極力動かさぬよう扉に目を向けた。
悟浄だった。
片足を引きずりつつ部屋の中へと入ってくる。
白いシャツのように見えた上半身は、よく見れば余すところなく巻かれた包帯だった。
「お、生きてる」
「当たり前だ」
「なんだ、死に水でも取ってやろうかと思ったのに」
言いながら、悟浄がゆっくりとテーブルへ向かう。
足を引きずっているせいで、身体が上下に揺れている。
長くなり過ぎた灰は、灰皿に辿り着くまでにその殆どが床に落ちたようだった。
そのままテーブルの脇で残り短くなった煙草を吸っている。
消えたばかりの悪夢のような光景が再び現れる。
かつて見たのは一人だったが、今は三人に増えている。
片時もじっとしていることのなかった小柄な身体がぴくりとも動かない。
その向こうには、両眼を開けたまま倒れている男がいる。
義眼である左眼はともかく、右眼ももはや何も映していない。
足元に横たわった男は、全身がその髪と同じ赤に染まっていた。
変わらないのは、なす術もなく立ち尽くしている自分だけだった。
「じゃ部屋に戻るとすっか。アンタまだくたばりそうにねえし」
悟浄が、フィルターぎりぎりまで吸い尽くした煙草を灰皿に押し付けた。
テーブルについた片手で支えながらぎこちなく身体の向きを変え、ドアへ向かう。
その背中に三蔵は声をかけた。
「俺はてめえの死に水なんざ取らねえぞ」
悟浄の足が止まる。
更に三蔵は重ねた。
「絶対取らねえぞ」
振り向きかけた悟浄の横顔からは、長い髪に隠れて表情は窺えない。
結局悟浄は振り返らず、代わりに尻ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
「いらねえよ」
悟浄は止めた足を前に出した。
ドアの前まで辿り着くと、ノブに手をかけたまま暫しまた止まる。
「取ってなんていらねえ。だから、アンタのも取らせんな」
入ってきた時とは正反対の言葉を残し、悟浄は出て行った。
言われずともそのつもりである。
悟浄や八戒、悟空が何の為に旅をしているかは知らない。
だが、けして桃源郷の平和の為などではないだろうと三蔵は思う。
勿論、自分にも同じことが言えた。
悟浄が出て行って少し経った頃、再びドアが開いた。
先刻より静かに、様子を窺うように開けられる。
今度は八戒だった。
「起きてたんですね。怪我の具合はどうですか?」
「大した事はない」
「今見てきたんですが、悟空も大丈夫そうでした」
悟空のことは元より心配していない。
あの桁はずれの体力を持つ野生児なら、たらふく食ってたっぷり寝れば回復するだろう。
「何か欲しいものありますか?」
傍に寄ってきながらそう問いかけた八戒に、三蔵は「ない」と答えた。
どうせ、煙草が良い顔をされるはずがない。
身動き一つするにも痛む身体が腹立たしい。
予想外に手強かった敵は更に腹立たしい。
「2、3日もすれば出発できそうですね。問題は悟浄ですけど」
「何せあばら三本はイッちゃってますし、足と腕も怪しいですからねえ」と八戒は続けた。
そう言われれば、自爆した敵に一番近い位置にいたのは悟浄だったと三蔵は思い当たった。
次に自分で、少し離れて悟空、そして遠く爆風も届かないようなところにいたのが八戒だった。
「伏せろ!」と叫んだ悟浄の声に八戒が振り向いた時には、砂埃がもうもうと舞い上がっていたことだろう。
今にして思うと、防御に長けた八戒を仲間が遠ざけた上での自爆だったに違いない。
「なので、悟浄がまた来たら大人しく寝てるように言ってくださいね」
灰皿に残された吸殻の銘柄に気付いていたらしい。
後でまた来ます、と付け加えて八戒は出て行った。
一人となった部屋の中で例の光景は視えてはこなかった。
もし視えたとしても、怖れることはない。
過去と幻だ。
過去には戻れない。
幻は現実ではない。
いくら見つめても変わらない天井の染みから目を離し、三蔵は目を閉じた。
誰かの為に生きるのも、誰かの為に死ぬことも、しないととうの昔に決めたのだ。
あの日失ったものを取り戻す為に今ここにいる。
取り戻すのは、経文ではない。
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