| 「さんぞーッ!」 勢い良く開いたドアから悟空が飛び込んできて、静かだった室内が一変した。静かだった、と言ってもここは病院で、閉め切ったドア一枚隔てた廊下からは足音や話し声、その他雑多な音が絶えず聞こえていた。ただそれらの音は三蔵にとって何の妨げにもならなかったという点で静かだったのである。 「病院内では静かにしろ」 三蔵は読んでいた新聞を傍らに畳んで置いた。 「分かってるって。だから廊下は走んなかったよ」 「にしちゃ随分息が切れてるじゃねぇか」 「うん、駅から病院まではずっと走ってきたから。もー早く三蔵に見せたくってさ」 頬を真っ赤にした悟空が鞄をごそごそと探り、取り出した紙を得意げに広げて見せた。受け取った三蔵の顔に驚きの表情が浮かぶ。 「5教科500点満点で473点」 悟空が取り出した紙とは二学期末の定期テストの結果だった。点数を読み上げる悟空が得意満面なのも頷ける。 「本当に取ったのか・・・」 「三蔵、約束!」 「・・・ちっ、覚えてたか」 「当たり前じゃん、半分はその為に頑張ったみたいなもんなんだからさ。それとも何?約束破んの?」 「んな事はしねぇよ」 「じゃ早く教えてよ」 「・・・・・沙悟浄だ」 「さごじょう?」 「ああ、さんずいに少ないの沙に悟るの悟、浄化の浄で沙悟浄だ」 この名前を口にしたのは何年振りだろう、いや何十年振りか、と三蔵は思った。決して無いだろうと思われたその名前を口にしても少しの懐かしさも感じなかった。それどころか、今まで無かった事の方が不思議に感じるほどであった。 「やっぱ名前だけ?」 「そういう約束だったろうが」 「そうだけどさ・・・。じゃあさ、じゃあその人の事じゃなくて他の事であと一つだけ!」 「何だ?」 「未来っていつ?」 「もう過ぎた」 「えーっ!だって未来って言ったじゃん!」 「その当時の俺にとっての未来で、今から未来って訳じゃねぇ」 嘘を吐いた。 本当はまだ先の話である。 だが、言えば恐らく悟空は探そうとするに違いない。 悟浄を、若かりし頃の自分を。 落胆した悟空を見て三蔵は、咄嗟に吐いた嘘が正解だったと確信した。本当は名前も教えるつもりは無かった。悟空の執念に根負けした三蔵が苦肉の策で出した条件が<次の定期テストで450点以上取れたなら名前を教える、もしも取れなかった場合はスッパリ諦めること>であった。毎回せいぜい取れて半分がいいところだった悟空がこの短期間でよもや成し遂げようなどとは正直思えなかったのである。万が一、それこそ天地がひっくり返るほどの勢いで取れたとしても、名前だけでは探し出すのは無理であろうという読みも三蔵にはあった。それでも念には念を入れ、時期については嘘を吐いたのだった。そうすれば探す気も無くなるだろう。偽名を教えることを過ぎりもしたが、それは三蔵には出来なかった。したくなかった。 「三蔵」 ふいに呼ばれた三蔵が視線を移すと、そこにはいつになく真剣な表情をした悟空がいた。 「・・・オレ、大学に行く。そして医者になる。小児科の医者になりたいんだ」 揺らがない目を真っ向から受け止め三蔵は悟空を見詰めた。 「今までは早く働きたいって思ってた。勉強もあんまし好きじゃなかったし、働いて楽させてやりたいなーって思ってた。でも今回のテスト、オレ頑張ったんだ。ホント、頭爆発するぐらい頑張ったんだ。友達や先生に教えてもらったり、家でも夜中までやってさ。きっかけは三蔵との約束だったけど、解けなかった問題が解けるようになって勉強するのも面白くなったんだ」 そこで一旦区切った悟空が大きく息を吸う。三蔵は続きを待った。 「そしたら何か欲が出てきて、もしかしたらオレにもなれるかも知んないとか思ってさ。大学に行くとしたら金もかかるし色々大変だけど、かーさんはきっとオレがやりたい事我慢した方が悲しむ気がするんだ。これはオレの勝手な思い込みかも知んないけど」 「いや、多分そうだろうよ。だが甘くはねぇぞ?」 「うん、分かってる。勉強もだけど学費も稼がなきゃなんねーしな」 言い切って笑顔を浮かべる悟空に三蔵は隠している事があった。 それはつい先日の話である。 『呼び立てて申し訳ない』 『いえ、伺おうと思っていたところでした。遅くなってしまいこちらこそ申し訳ありません』 『早速だが今日来てもらったのは悟空の事だ』 『あの子が何か?』 『悟空は高校卒業後どうするつもりでいる?』 『さあ、まだ決めていないようですけど。私としては進学したいならさせようと思ってます』 『失礼を承知で言わせてもらうが、大学に行くには金がかかるが?』 『大金ではありませんがその為に積み立ててきましたし、何とかなるものです。いえ、して見せます』 『そうか。ならば不要と思うが、それでも受け取ってもらいたいものがある』 『何をですか?』 『金だ』 『・・・・・有り難いお申し出ですがお気持ちだけで。本当にお気持ちだけで充分です』 『どうか気を悪くしないで頂きたい。もう悟空から聞いているとは思うが俺はもう長くない』 『・・・・・』 『金は持っていけん。いこうとも思わんが』 『でも・・・』 『どうせ残しても受け取る者などいない。礼としてどうか受け取ってもらいたい』 『礼だなんて、お礼をしなければならないのはこちらの方です。ご迷惑をおかけしてばかりで・・・』 『迷惑だなどと思った事は一度も無い。・・・悟空を見ているのは楽しかった』 『悟空も玄奘さんといるのがとても楽しいようです。私はあまり一緒にいられませんでしたし』 『時間の多い少ないは問題では無い。大事なのは質だろう』 『・・・・・』 『何か変な事を言ったか?』 『いえ、何だか説得力があるなぁと思いまして』 『・・・。ところで受け取ってくれるのか?』 『・・・分かりました。では有り難く頂戴致します。この事はいつ悟空に話しましょう?』 『いや言わなくていい。言ったからといって悟空の何が変わる訳では無いが、不要な事だ』 『でもそれでは・・・』 『悟空ももう高校生か。あんなに小さかったのに随分と大きくなったものだな』 『本当に大きくなりました。自慢の息子です。その悟空を育てたのは私だけでなく玄奘さんもですよ』 「雪だ。すっげー、もったもた降ってきた。根雪になるかも」 悟空の声に三蔵が窓を見遣ると、その通り大粒の雪が降っていた。切れ間なく後から後から降る様は落ちると表現した方が相応しいかも知れない。 「こないだ、かーさんに家の経済状況教えてもらったんだ。ほら、大学行くって決めたからさ。暮らすって思ったより金かかんだな。贅沢なんかしてないのに食費とかビックリするぐらいでさ」 「お前の食欲は底無しだからな」 「そりゃそうだけど。で、悟浄さんだっけ?。何か、良い人っていうか、そんな人もいるんだなーって思ったんだ。だって見ず知らずの他人を住まわせて食わせてだろ?しかも過去から来たなんていう奴、頭がおかしいって気味悪がるのが普通じゃん。しねぇよな、普通はさ。言い方変えれば、超が付くほどお人好しってーの?」 そうだ。 だからこそ悟浄が知る必要は無いのだ。 自分がどんな風に暮らし、どんな想いを持っていたかなど。 知ればきっと無意識の内にも囚われる。 悟浄は悟浄自身が決めた道を歩めばいい。 自分と同じように。 三蔵の顔にうっすらと微笑みが浮かんだが、窓の外を眺めていた悟空がそれに気付く事は無かった。 「ああ、バカが付く程お人好しな奴だ」 そしてしぶとく消えない奴だ。続けて胸の内だけでそう呟いたところで、三蔵は自宅の抽斗にある一枚の紙切れを思い浮かべていた。強烈な睡魔に襲われる瞬間、二度目の三蔵はそれがタイムスリップが行われる合図だと確信出来た。咄嗟に掴んだのがその紙切れである。今にして思えばいつでも手に取れる場所に置いてあった。知らず備えていたのかも知れない。そうまでして持ってきたが、もう少しで必要無くなる。自分の死後、恐らくあれは誰の目にも止まる事なく処分されるだろう。三蔵は他人から見れば何の価値も無い紙切れについてそう思った。 「あーあ、何か冬って寂しいよな。色も白ばっかになるし」 「そうか?俺は嫌いじゃねぇがな」 「・・・春になったら花見行こうな」 「・・・そうだな」 嘘を吐いた。 悟空も自分も春までもたない事を知っている。 約束は果たされない。 それでもいいと三蔵は思った。 迫る死を前に不思議なほど三蔵の心は穏やかだった。 金も物も持っていけぬしいきたいとも思わないが、許されるならこの想いだけは持っていきたい。 否、是が非でも持っていく。 三蔵はこれまでを振り返った。家族も遺したいものも何も無い。 だが満足だった。 幸福だったと心から思えた。 唯一片の悔いも無い。 |