― 願 ―
気が付けば、辺りに家々はまばらになっていた。
傍らを幾人かの子供が駆けてゆく。
『遅くなっちゃったね』
『早く帰らないと叱られるよ』
『お腹もへったし』
『今日の晩ごはん、何かなー』
前方では、濃い黄金色の太陽が空を染め上げ、沈もうとしている。
ふらりと宿を出たのも、少しばかり歩いてみようかと思ったのも特に目的があった訳ではない。
単なる気まぐれである。
一歩踏み出せば、後は機械的に足が動いた。
空気を吸っては吐くのと同様に、右足を出せば次は左足、と歩き続けた。
そうして気が付けば、いつの間にか街外れまで来ていたのだった。
結構な距離と時間を歩いたわけだが、途中見た筈の街の様子や人々の顔が殆ど記憶にない。
歩けと指示を出した後、五感と脳を繋ぐ回路は切断されたようだ。
全くもって意味も目的も無い散歩だった。
先刻の子供らではないがそろそろ帰るか、と三蔵は来た道を引き返そうとした。
だが、その瞬間、何かが頭に引っかかった。
思考を巻き戻す。
そして気付いた。
自分には、帰る場所も帰りたい場所も無いのだという事に。
明日には発つ宿は勿論、育った寺も長安の寺も帰る場所だとは思えなかった。
ふいに足元が揺らいだ気がした。
細長く伸びた自分の影も心なしか頼りなさげに見える。
青から藍へと濃くなりつつある東の空に、数羽のカラスが群れて飛んでいる。
彼らには帰る巣があるのだろう。
少し経った頃、道の向こうに見知った顔が見えてきた。
ポケットに片手を突っ込んで、ぶらぶらとこちらに向かってくる。
「居ねぇと思ったらこんなとこまで来てたのかよ」
慣れた咥え煙草で器用に話す。
「猿が死にそうだから先に飯食いに行ってるってよ」
「てめぇは?」
「『迷子になってたり、知らない人に付いて行ってると困りますから、迎えに行って下さい』だってよ」
帰るぞ、と悟浄が今来た道を引き返そうとした。
「帰る、ってどこへだ」
つい口が滑った。
「どこへ、って八戒と悟空んとこに決まってんだろうが」
振り返った悟浄の表情は、何を今更、と言わんばかりである。
いともあっさりとそう答えた悟浄を、かなり間の抜けた表情で見ている事に気が付く。
まさしく、何を今更、だった。
小難しく考える自分が時に鬱陶しい。
大切な事、本当の事というものは、案外単純で、そして大抵身近にある。
三蔵は、左の袂から煙草とライターを取り出した。
考え事をする時にも吸うが、物事が片付いた時に吸う煙草は、格別に美味い。
と、その時、右の袂にも僅かな重みを感じた。
今の今まで気が付かなかったが、ライターが一つ入っている。
二つは必要ない。
迎えに来た筈の自分を置いて、すたすたと先を歩く男の背に声を掛けた。
近寄りながら三蔵は、黙って握ったままの拳を突き出した。
「やる」
反射的に手を出したものの、悟浄の顔に不審感が広がった。
「・・・そん中に、まさか蛙とかバッタとか、そんなモンが入ってんじゃねぇだろうな」
「ガキの悪戯じゃあるまいし。んなモン入ってねえよ」
それでもまだ訝しがる悟浄の手に、握った拳からライターを落とした。
「ライター・・・?つかコレ元々オレんじゃねぇか」
そう言われればそうだったと三蔵は思い出した。
数日前、自分のがガス切れした際、悟浄から借りてそのままだったのだ。
だが、そんな事はどうでもいい。
重要なのは、物ではないのだ。
「要らねえんなら返せ」
「だからオレんだっつーの」
喚く悟浄を置いて、今度は先に立って歩き出す。
「あー!オイル切れじゃねぇか!」
言われてまた思い出した。
昨日切れたのだった。
それでテーブルの上にあったのを拝借したのが、今左の袂に入っているライターだ。
だが、そんな事もどうでもいい。
物も、誰のか、というのも重要ではないのだ。
振り返れば、おびただしい数の屍の山が見える。
その向こうに帰る場所はない。
帰る場所は、振り返らずともいつもすぐ傍にある。
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