それでも・・・・
糸の様に降る雨は音がしなかった。
それでも纏わりつく湿った空気が窓の外は雨だと告げている。
八戒は隣のベッドで横になっている悟浄の何度目かの寝返りの音を聞いた。
安物のベッドの軋む音、布団の衣擦れの音。
溜息を付き、八戒は身を起こした。
湿気を含んだ床に着いた足裏が気持ち悪かった。
「眠れないんですか?」
一瞬の間を置き、悟浄も溜息を一つ大きく付いた後、八戒と向かい合う格好でベッドに座り直した。
返事はせずテーブルの上の煙草に手を伸ばした悟浄に八戒は再度繰り返した。
「眠れないんですか?」
「・・・・最近、敵襲無ェからよ。身体なまって眠くもならねぇっつーの」
口調は相変わらず軽いがその表情はきっと正反対だろう、と八戒は感じた。
悟浄のように喫煙の習慣が無い八戒は、喋る事でしか雨のせいだけではないこの湿った空気を変えることは出来ない。
「・・もっと独占欲の強い人かと思ってました」
「いきなり何だ?誰のことよ」
「貴方ですよ」
「オレ?ンなこと無ェよ。来る者拒まずだけど去る者も追わずよん」
「それは偽者のことでしょう?僕が言ってるのは本物のことですよ」
「何だソレ。本物なんて持ったことねーし、欲しいと思ったこともねーよ。大体この色男のゴジョーさんはみんなの・・・・・・」
「悟浄」
まだ続きそうな悟浄の軽口に八戒は口を挟んだ。
だが悟浄は聞こえない振りで続けた。
「みんなのモノだしぃ。一人のモノになんかなんねーの。ま、綺麗なオネーサマ達は全部オレの・・・・」
「悟浄」
先刻より少し大きな声で八戒は口を挟んだ。
向かい合って座っている癖に八戒を見ずに話していた悟浄がまた溜息を付き俯いた。
悟浄にしても八戒に何も気付かれていないなどとは思っていなかった。
「・・・・・逃げ道は残しておくもんだぜ・・・・・・・・・・」
「それは夫婦喧嘩です」
「似たようなモンだろ」
悟浄は苦笑の声を漏らした後黙り込んだ。
ずっと見続けていた向かいの男から目を離し、八戒は窓に目を遣った。
雨は先程と変わらず垂れていた。
雨など見ていて楽しいのもではない。
やがて八戒は俯き黙ったままの悟浄に視線を戻した。
「ベッドで煙草は吸わないで下さいっていつも言ってるでしょう」
立ち上がってテーブルの上から灰皿を悟浄に差し出し、再びベッドに腰を下ろした。
極々細い逃げ道を与えるかのように先刻よりは穏やかな声で八戒は咎めたが、悟浄は逃げることはしなかった。
「ちげーよ。そうじゃねぇ」
八戒が気付いたのは悟空の変化からだった。
悟空は最近前にも増して三蔵から離れなくなっていた。
べたべたと引っ付く訳では無いが、必ず目の端には三蔵を捉えておける位置にいるようになった。
『腹減った!』と『悟浄との子供同士のような喧嘩』は相変わらずだったが、それもどこか違和感があった。
そして、よくよく観察してみると三蔵と悟浄にも微かに変化が見られた。
態度や言葉に何かあるわけではない。
この二人も相変わらず小競り合いを繰り返していた。
強いて言うなら二人の間での<境界線>が変わっていた。
人にはそれぞれテリトリーがあり、その境界線ともども目に見えるものではない。
そして近付く相手によってそれらの大きさ、位置は変わる。
今までなら踏み込めば反発し合う互いの境界線がほんの少しだけ狭まっていた。
悟空の変化が無ければ八戒ですら気付かなかった程の本当に微かなものだった。
八戒は改めて悟空の野性的勘と三蔵との繋がりに感心した。
悟空のこの変化以降、三蔵と悟浄は喫煙時にすら二人きりでは無かった。
今日も悟空と三蔵は同室で、恐らくもう二人共寝入っているだろう。
「別にそういうことじゃねェんだよ。眠れねぇのは」
逃げ道を自分で塞いだ悟浄がぽつりと呟いた。
一番身体の大きな悟浄が、八戒にはとても小さく見えた。
「違うんですか?じゃあ、何が?」
「アイツらはアレでいいんだよ。よくねぇのはオレだ。こんなのはオレじゃねぇ」
絞り出すような声に八戒は言葉が出て来なかった。
まだ悟浄は足掻いていた。
悟浄が認めることを恐れている理由に見当は付いているが、ここまできてそれでも尚も足掻く悟浄が痛かった。
ようやく八戒は答えた。
「人は変われるものです」
一言出すと力が抜けた。
顔を上げた悟浄に更に言葉を重ねた。
「いいじゃないですか、変わっても。そうじゃないと僕は今ここにいません。
変わりたくないって云うのなら構わないですが、そのままでいても苦しいんじゃないですか?
でも変われるチャンスはそうそう来ないですよ。貴方は特に運の無い人なんですから」
呆けたように八戒を見詰める悟浄に微笑みかけた。
「そんな間抜けな顔をしないで下さい。自称『色男』が台無しですよ。百年の恋もいっぺんに冷めます」
「恋してたのかよ」
悟浄に表情と普段の声音が少し戻ってきた。
「してません」
悟浄は笑い出した。
湿った空気がいくらか軽くなったのを感じた八戒は、横になり布団を被った。
ケースから煙草を取り出す音を聞き、顔だけ悟浄の方に向けた。
「聞くのを忘れてました」
「へ?」
「で、彼とは?」
手に持った1本とケース、灰皿、ライターをテーブルにガタガタと置き、
「何もねーよ!もう寝る!」
と悟浄が頭から布団を被った。
八戒は声を出さずに笑みを浮かべ顔を元に戻した。
雨は今も降り続いている。
苦手だった筈の雨の夜にこんな風に笑える自分に、やはり人は変われるものだと八戒は実感した。