| 惑溺 |
カウンターに突伏して、見るとも無しにグラスを眺める。 琥珀色の液体を半分程に減らした其れは、自らの手の中で空気中の水分を表面に纏い汗をかいていた。 一筋、親指を滑らせて結露を拭う。 グラスを回す。 また指を滑らせ、グラスを回す。 単調な動作を繰り返しグラスが一周する頃には、其の表面は再び新たな露で覆われていて。 故にグラスは、手の中でくるくると回り続ける事になる。 音が。 洪水の様に襲いかかって来ては遠ざかる。 決して静かとは言い難い店内の喧騒が、距離感を失った侭次々と身体を通り抜けて行く。 音はあくまで音でしか無く、其処に含まれている筈の他人の会話は何一つ、意味を成さなかった。 アルコールに犯されたコマ送りの視界。 ぎこち無く結露を拭い続ける自分の手。 ―――飲み過ぎた。 其れは反省だとか後悔の類では無く、唯の事実確認。 「アンタさぁ、さっきから何やってんのよ。」 突如として視界に現れた手にグラスを奪われる。 気になるなら拭けば良いだろ、と。 カウンターの内側から勝手にクロスを拝借した男が結露した其れを大雑把に拭い取った。 再び手の中に戻ってきたグラスを何となく面白く無い気分で眺める。 玩具を取り上げられた子供は、こんな気分なのだろうか。 「・・・・・余計なお世話だ。」 自分の声がやけに遠く、果たして呟いたのか叫んだのか判別不可能だった。 ハイライトの香りが鼻腔を擽る。 五感の全てが鈍った今の状態で其れを感じられたのは、自分に馴染んだ香りだからだろう。 迷惑な話だ。 ふいに煙草が恋しくなって、しかし動くのは面倒で。 煙草を吸うべきか諦めるべきか。 暫く悩んだ後、考える事ですら面倒になって放棄した。 代わりに、隣に在る男の名を口にする。 「どした?」 覗き込んできた男の指が、突伏した侭の自分の顔に掛かる髪を掃う。 其の侭肩に腕を回し、緩く髪を梳く其の手を振り払うのも面倒で。 兎に角面倒で。 好きに、させておく事にした。 「ちょっと飲みすぎた?」 髪を撫でる手と同様、甘く響く声は きっとこうしているのが自分では無く、初対面の女であっても同じ様に掛けられるのだろう。 眼を閉じる。 途端に襲い掛かって来る浮遊感と、酷い耳鳴りが不快だった。 ―――煙草吸いてぇ。 何時からだろうと、大して役に立たない脳味噌で考えた。 何時から自分は、この男の前で深酒をする様になったのだろう。 一人で飲むのが好きだったのだ。 日頃、別段周囲に気を遣っているという訳では無いが、其れでも酒を飲む時位は誰にも邪魔されず、一人静かに飲みたかった。 体内に取り入れるアルコール量を制御しなければならない煩わしさよりも、他人の気配が傍にある煩わしさを嫌っていた筈なのだ。 情報処理能力が大幅に低下した脳味噌は、明確な答えを弾き出さず。 結果、『何時の間にか』という安易な結論に達した。 其れこそが案外、答えとしては正しいのかも知れないが。 ハイライトが強く香る。 熱を持った瞼を持ち上げると、思いの他間近に在る男の顔。 静かに距離を詰め 軽く、触れてきた唇に―――。 音が消えた。 例え話では無く 事実、消えたのだ。 根でも張ったのでは無いかと危惧する程、見事に身体はカウンターに張り付いた侭で。 其れでも触れた唇を引き止めようと、無意識に頭だけを持ち上げた。 平衡感覚にはとっくに別れを告げていた。 コマ送りの侭、グラリと揺れる視界。 絡み合う舌の感覚だけがやけにリアルに感じられた。 眩暈がする。 喧騒の代わりに訪れたのは、酷く張り詰めた空気。 其処に居合わせた全員が息を飲む気配。 これが男女の其れであったならば大して珍しい光景では無かっただろう。 唯でさえ悪目立ちする紅い男と、法衣の所為で一見して仏道に帰依する者だと分かる自分と。 野郎同士のいきなりの暴挙に、店内は水を打ったかの如く。 しんと静まり返った空間で、痛い程の視線を集めて交わす口付けが 妙に楽しくて仕方が無かった。 どうせ明日には、自分は何も覚えてやしないのだ。 他人の視線など気にする必要が何処に有る。 ぼやけた脳味噌に後押しされ、酔いに任せた。 遠慮無く絡め取られる舌を、同じだけの無遠慮さで押し付ける。 カウンターに根を下ろしていた腕を無理矢理に引き剥がし、男の首に回して引き寄せる。 自らが生み出す水音が、眩暈に拍車を掛けた。 「・・・ヤリてぇんだけど。」 上がった息を整えながら男が吐いた言葉は、漸く喧騒を取り戻し始めた空間に紛れた。 男の脈拍が常よりも随分と早い。 焦点の合わない視界の中、同じく視線を溶かす男に思う。 明日はきっと、揃って記憶障害というオチだ。 「奇遇だな。俺もだ。」 「宿まで歩ける?」 「・・・そう思うか?」 「・・・・・そんじゃ取り敢えず、路地まで頑張れ。」 記憶を手放すより先に、さっさと理性を手放した俺達が今、目指すのは 決して西では無く。 溺れたのは、決して酒では無く。 end. |
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『煩悩HEAVEN』様で30000打踏みました!
サイトへ伺った際「ん?今30000ってなってたような??」・・・無欲の勝利かしら(笑)
リクは「しこたま飲んで訳わからなくなっちゃってる53(会話含め)」でお願いしました。
気だるい雰囲気の中で匂い立つような艶っぽさ・・・!
この作品は勿論、一之瀬三倉様の書かれる53はどれもこれも素敵ですv
ありがとうございました。