降り注ぐは雨でなく
『じゃあ、いつものな』
海外から帰ってきた時に一番食べたいと思うものは人それぞれだろうが、その中でカレーだという人は少なくないだろう。悟浄もその内の一人である。特に好物という訳ではないし、普段は滅多に食べない悟浄だったが、この時ばかりはなぜか無性に食べたくなるのだそうだ。それも本格的な凝ったものではなく、極々シンプルなカレーがいいらしい。というよりむしろ、隠し味も入れずに市販のルーだけで作った手抜きのようなものでないとダメだと言う。手間がかからず楽といえば楽なのだが、カレーというものは往々にして作りすぎてしまうものである。一度で食べきれることは殆どない。よって、翌日もまた更にその翌日もカレーという事態に陥ることもままある。好物ではないものを連日食べるというのは結構な苦行だ。それでも、毎回悟浄は「カレー」と言い置いて出掛けてゆく。そして、言い置かれた三蔵もまた、一食分だけ作ろうと思いながら何故か鍋一杯に出来上がったカレーを前に毎回うんざりするのだった。
三蔵と悟浄が一緒に暮らし始めたのは、一年ほど前のことだった。
その頃悟浄は築数十年の見るからに古びたアパートに住んでいた。ほとんどが空室で、八部屋ある内実際に人が住んでいたのは、悟浄のほかには外国人二人で住む二部屋だけだった。家賃収入が目的というよりも、金がかかる取り壊しよりマシだという理由で存在していたアパートだったのだろう。だが、大家である年寄り夫婦が相次いで亡くなった後、相続の関係でついに取り壊されることになった。その為住人達は、幾ばくかの立退き料を渡され、引越しを余儀なくされたのだった。
「今日何にち?え、ウソだろおい。もう一週間しか無えじゃねーの」
カレンダーを見た悟浄が、つまみを噛み千切ってビールをぐいと飲んだ。周りには空缶がごろごろ転がっている。資源ゴミの収集日は何曜日だったろうかと考えた三蔵は、先週も出し忘れたことを思い出した。ビール缶ばかりを詰め込んだゴミ袋を幾つも抱えてゴミステーションに向かう姿は、想像するにあまりみっともいいものではない。げんなりしている三蔵をよそに悟浄は「しっかし硬えな、このイカ」とぶつぶつ文句を言っている。その硬いあたりめを買ってきたのは悟浄であって、しかも今回が二回目、前回はわずか三日前である。忘れっぽいにもほどがあるというか、学習能力がないというか、改めて悟浄は阿呆だと三蔵は確信した。
だがしかし、問題はそこではない。重大な問題は、イカが硬い発言の前の一週間しか無いというところにある。これは言うまでもなく、立ち退き期限にほかならない。三日前に逢った時も、期限の話が出たと記憶の片隅にはあったが、三蔵にとっては所詮他人事ですっかり忘れていた。一週間もあれば、不動産屋に行き新居を決め、引越しをすることも可能だと思うだろう。勿論その通りなのだが、それは通常の場合であって、明日から出張の悟浄にはとうてい無理な話だ。出張から帰ってきた悟浄はホームレスということになる。
「のんきにビール飲んであたりめ食ってる場合か。すぐ不動産屋に行って来い。今すぐ行って来い」
「今何時だと思ってんの。夜の十一時よ?こんな時間に開いてる不動産屋なんて見たことねえよ」
「どうするつもりだ?」
「んー、どうにかなるんじゃねえ?」
ならねえよ。それこそ言ってもどうにもならない言葉は呑み込んで、仕方なく「しばらくの間うちに置いてやる」と三蔵は言った。
「サンキュー!んじゃ今夜は特別大サービスしちゃおっかなー」
特別大サービスについては三蔵は辞退したが、「しばらくの間」は今も続いていた。思ったより悟浄との同居生活が三蔵にとって苦にならなかったせいである。くだらないことでのいざこざは頻繁にあったし、時折深夜に帰宅した悟浄に起こされるのも非常に腹立たしかったが、翌朝になれば大したことではないように思えたのだ。
にんじんも玉ねぎもじゃがいもも一つずつしか入れていない。それでもやはりカレーは一食分以上出来上がっていた。野菜それぞれを半分ずつにすればいいのは分かっているが、つい面倒で入れてしまうのだ。
完成したカレーを前に三蔵は、悟浄のカレーとご飯の比率を9:1でよそおうと思いついた。そもそも食べたいのは悟浄なのだから問題はないはずだ。今までどうして気付かなかったのだろう。
だが、帰国予定のその日、悟浄は帰ってこなかった。
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