携帯電話が鳴っている。取ろうとしたはずみで充電器と目覚まし時計が机から落ちた。サブディスプレイの表示は八戒となっている。部屋の中の明るさからいって、まだ夜は明けきってはいなさそうだった。手に持ったままの携帯電話は鳴り止む気配がない。何十回目かの呼び出し音で漸く三蔵は通話ボタンを押した。



八戒と三蔵は同じ会社で働いている。整った顔立ちに柔和な笑みを常に浮かべた、誰しもが好青年と思うような男である。その八戒を、三蔵は当初異星人か何かのように思っていた。楽しくも面白くもないのに笑うなど、三蔵には信じがたいことだったのである。もっとも、楽しい時でさえ滅多に笑わない三蔵なのだが。
「何かトラブルでも?」
自動販売機と灰皿が置かれた休憩室で、八戒はいつもの笑みをたたえて三蔵に話し掛けた。話し掛けられた三蔵は、自分に向けられた言葉だとすぐには気付かなかった。同じ会社で働くもの同士、顔は見知っていたが会話を交わしたことが無かったからである。部署が異なっているせいもあったし、三蔵の非社交的性格が故も大きかった。
「いや、特に何も」
気付いた三蔵が答えると、八戒は「じゃあ、その不機嫌な顔はデフォルトですか?」と訊いてきた。自覚はあっても面と向かって言われたことなどない。
「そっちもその顔はデフォルトか?」
吸煙テーブルの向かい側に立つ八戒は、煙草は吸わずに紙コップのコーヒーを飲んでいた。そういえば吸っているところを見かけたことがない、と三蔵は思った。ヘビースモーカーの三蔵は頻繁に休憩室に出入りしているのだ。
「僕の場合は、デフォルトというより仮面と言った方が正しいですかね」
紙コップを口元に運ぶ八戒の顔には、本人が仮面と呼ぶ笑みが貼りついたままだ。
機械音を出しながら吸煙テーブルが煙を吸い込んでいる。三蔵が指の間に挟んだ煙草から、吐き出すそばから、揺らぐ間も与えない。
休憩室の壁際には、三台の自動販売機と長椅子が並んでいる。自動販売機からも唸るような音が出ている。その音が意外と大きいということに三蔵は初めて気付いた。いつもはひっきりなしに人が出入りし、喋り声は騒々しく、吸煙も追いつかずに室内が白く煙ることもあるほどだが、今は三蔵と八戒の二人しかいなかった。煙草を吸わない八戒が、わざわざ椅子のない吸煙テーブルの前に立つ必要はない。
「疲れそうだな」
「たいして。表情によって人からあれこれ訊かれることの方が、僕にはよっぽど疲れます」
確かに、先刻の八戒のように訊かれることが三蔵には多々あった。
『何か怒ってるんですか?』
『悩み事ですか?』
だが、それが疲れると思ったことはなかった。訊かれても「いや」「別に」のどちらかで済ませてきたからだ。たいていの人間はそれ以上何も言わず、その内誰からも訊かれることはなくなっていた。
「なぜ俺に話す?」
「ずっと気になってたんです、貴方のことが」
何だか口説いているみたいに聞こえますね、と八戒は笑みを深くした。聞かされた三蔵は、真意を読み図ろうと無言で八戒の顔を見つめたが、そこには仮面なのかそうでないのか判断がつきかねる笑みしか見えなかった。



その日から八戒は、三蔵の顔を見かけると声を掛け、仕事後に食事がてら飲みにも行くようになった。三蔵には非常に珍しいことである。入社した頃は、同僚などとたまには出かけていたが、その時間が苦痛以外の何ものでもなく、今では一切していない。何が苦痛だったかというと、彼らの話題に全く興味を持てなかったのだ。三蔵自身、彼らはいたって普通であって、自分が少しばかり変わっているのだという自覚はあったが、彼らが大声で熱心に話す仕事や上司の愚痴、女の話には相槌を打つのすら難しかった。
八戒とはそんなことはなかった。そもそも、それほど二人とも喋らない。無言が気にならずにいられる相手というのは滅多にいない。数を重ねていくうちに、三蔵には八戒の笑みが仮面なのか心からなのかの区別がつくようになり、概ね性格も把握できた。
時折、唐突に突拍子もないことを言い出すことはあるが、八戒は大した用事もなく夜明けに電話をかけてくるような男ではない。














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