巡りても尚










数日振りに帰宅した一人暮らしの筈の悟浄を迎えたのは、自分のベッドで眠る男だった。部屋の鍵は間違い無く掛かっていた。ハードスケジュールでとうとう幻覚まで視えるようになったかとその男に手を伸ばした悟浄は、これが幻覚では無い事を知った。生身の人間が持っている温もりと首筋にはしっかりとした脈が感じられる。
この日の悟浄は自分の身体を運ぶのすら億劫なほど疲れきっていた。細切れの仮眠を取るのが精一杯で、次から次へと入る仕事を感情や思考は遮断してこなし終え、漸くの帰宅だったのだ。
ぼろ雑巾のようになった身体を一刻でも早く休めたい悟浄にとってこの状況は、恐怖や驚きよりもただ腹立たしいだけだった。

「おい、アンタ誰よ?起きろって」

眠る男はどんなに強く揺すぶっても無理やり引き起こしても目を覚まさなかった。僅かに残っていた気力体力共に使い果たし悟浄は諦めた。見知らぬ人間が入り込んでいるという異常事態にも関わらず、極限まで疲労した肉体と脳は感覚をも麻痺させたらしかった。死んだように眠る男が危険人物だろうが何だろうがどうでもいいという気になっていた。
正直、仮に眠っている間に刺されたとしてもさして惜しい命でもない。
居間のソファに横たわった途端、殆ど意識を失うように眠りに落ちた悟浄の脳裏にはそんな思いが過ぎっていた。





     *****





目覚めた悟浄は慌てて時計を見た。短針は九の少し前。寝過ごしたと跳ね起きたが今日と明日は休みだった事を思い出し脱力した。部屋の中は暗く、カーテンがかかる窓からは陽光は窺えない。ぼんやりと今は夜なのかと思いながら、横になる前にテーブルの上に放り投げた煙草を取り火を点ける。たっぷり休ませた脳は逆に寝過ぎたらしく霞がかっているような感じがした。ゆっくりと深く肺に煙を吸い込む。何か忘れている。じわじわと霞が晴れてゆく頭に昨夜の事を思い出した悟浄は隣室へと急いだ。
やはり夢でも幻覚でも無く未だ男が眠っていた。

「おい、起きろ!」

昨夜より強く揺すぶると男はやっと目を覚ました。

「アンタ誰だ?何でオレの部屋にいる!一体どこから入ってきた?!」

瞬きを繰り返し完全に覚醒した男は掴まれている手を振り払うと周りを見回している。その表情は驚愕に歪んでいた。

「お前は誰だ!ここは何処だ?!」

自分よりも遥かに取り乱した様子の男に悟浄は戸惑った。意識の無い内に誰かに運ばれたか、単に忘れているだけか、もしくは嘘を吐いているか。
男の様子からいって三番目は無さそうだった。

「オレが誰でもここはオレの家。アンタに怒鳴られる筋合いは無ぇよ」

「何で俺がここにいる?」

「だからそれはオレが訊いてンだろうが。もうアンタが誰だっていいわ、とにかく出てってくんねぇ?」

一番目にしろ二番目にしろ鍵の掛かっていた自分の家にどうやって入ったかという疑問は残るが、例え誰かが合鍵を持っているにせよどうせ盗まれて困るものなど殆ど無い。とりあえず今目の前にいる男を追い出す事が先決だと悟浄は思った。
 
「お前が俺をここに連れてきたのか?」

「何でオレが見ず知らずのアンタを連れて来なきゃなんねぇのよ。第一そうだとしたら出てけなんて言わねぇだろうが」

もし男が居座るようなら警察に届けるしかないだろうが出来ればそれは避けたかった。警察と聞いて良い思い出になっているようなものは悟浄には何一つ無い。だが、それには及ばなかった。男は立ち上がり出口を訊いてきた。安堵を隠し悟浄は教えたが玄関まで行った男の動きが止まった。靴が無かったのだ。靴下の裏を確かめたが汚れてはいない。これでこの男が自分でここまで来たという事は考えられなくなった。そのまま追い出しても誰に咎められる訳でもないが、もしかしたらこの男も被害者なのかも知れないと思うと同時に穏便に済ませられるのであればと悟浄は自分のサンダルを履かせてやった。
男が扉の向こうへ消えて本来在るべき姿の部屋に戻った。だが、何となく後味が悪い。ざらつく思いで悟浄は滅多にしない掃除をする事にした。普段目に入っても見えない振りをしてきた汚れは相当なもので、数少ない家具の上には埃が積もり、その後ろには失くしたと思っていた小物が幾つも見つかった。終わる頃にはすっきりとまではいかないが少しは気分が良くなっていた。
風呂に湯を張りゆっくりと浸かる。身体に付いた埃と共に残っていた後味の悪さも流れていくようだった。
風呂から出て冷蔵庫を開けた悟浄は溜息をついた。
ビールが無い。





     *****





近所のコンビニでビールの他に、今日一日何も口にしていなかった事を思い出した悟浄は食料も少し買いその店を後にした。帰る道すがら目に入る家々の灯りは殆ど消えており、時計を見ずとも深夜である事を認識させられた。頻繁に利用するその店と自宅との間には特に面白いものは無く普段なら余所見をする事は無い。それが今日に限っていつもなら見遣る事の無い公園を何故か見てしまった悟浄は、つくづく自分は厄介事に好かれる男なのだと思った。
薄暗い公園の灯りの下で先刻追い出した男が所在なく一人座っていたのだった。

「・・・行く処無ぇの?」

男は驚いて振り向いたが何も答えなかった。

「来いよ」

悟浄は歩き始めたが男は付いてこない。

「んな寒い所にいたら風邪引くぞ。とりあえず来いよ」

暫し迷った後で男が立ち上がったのを見た悟浄は家へと向かった。男は数歩後ろを付いてくる。何かあればいつでも逃げられる距離だ。全身から発する男の警戒心を悟浄は無視して歩いた。

どうしても見なかった事には出来なかった。
ベンチに座っていたあの姿。
行く処も帰る処も持たない、消えてしまいたいと願っているような後ろ姿だった。

悟浄は痛いほど知っていた。
それはかつての自分だった。














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