立ち尽くしたまま知らず力を込めた掌の中で悟空から渡された封筒がくしゃりと音を立て、悟浄はその存在を思い出した。封を切ってみると中には大小一枚づつの紙片が入っている。悟浄はまず大きい方を広げた。



   沙悟浄様

   今日は会ってくれてありがとうございました。
   同封したものは三蔵がずっと持っていたものです。
   たまに取り出しては見ていました。
   オレがそれを知っていた事は多分三蔵は気付いていなかったと思うけど。
   本当は、棺の中に三蔵と一緒に入れた方が良かったのかも知れません。
   三蔵もそうして欲しかったのかも知れません。
   でもオレはどうしても悟浄さんに知っておいてもらいたかった。
   だから、渡します。
   あとは悟浄さんの好きなようにしてくれていいです。

                                           孫悟空



罫線をはみ出して書かれた大きな文字が屈託なく笑った悟空の印象にそのまま当て嵌まるようだった。続いて悟浄は小さい方を広げた。悟空の手紙よりはるかに皺が多く、若干黄ばんでもいる。表は何の変哲も無い伝票だったが×印が書かれてあった。悟浄は裏返してみた。



   三ぞーへ いってくる ゴジョー

   三蔵へ  行ってくる 悟浄



一行目は殴り書きで読むのも困難な字、二行目は丁寧に書かれた達筆な字。いつだったか悟浄が書いた置手紙を三蔵が添削したものだった。
崩れ落ちそうな身体を悟浄は壁に手を着いて支えようとした。が、上手くいかず、壁に背を預ける格好でずるずると床に座り込んだ。先刻までの怒りにも似た寂寥感は、形を変え、溢れ出し、頬を伝い落ちた。顔を上げ目を瞑り手で覆う。だがそれは、指の間を縫って止め処なく零れ続けた。
悟浄は、三蔵が過ごした三十年近い年月を思い、その間の三蔵の胸の内を想い、堪える事を諦め溢れるままに涙した。
日々積み重なる新たな記憶に古い記憶は薄れてゆくのは自然な事であり、またそうでなければ生きてゆくのは難しい。古い記憶を留めておく為には、繰り返し何度も思い返し、新たな記憶の上に積み直さなければならない。そこには忘れまいとする確固たる意思が在る。三蔵が何を思い紙片を見ていたのかは今となっては知る由も無いが、悟浄には分かる気がした。
忘れてしまうだろう、と思っていたのだ。
声も顔も、想いさえもきっと忘れてしまうのだろう、と。
実際、その方が楽に生きられただろう。
薄れゆく記憶など放っておけば、そのまま他の記憶と共に埋もれたかも知れないのに。
悟浄は自分自身が創り上げていた“気の遠くなるような隔たり”が消えた事を知った。たかが一枚、されど一枚。悟浄と三蔵が出逢い、共に暮らした短い時間を証明するものは、このさしたる内容の無い紙切れ一枚だけであった。




尽きぬかと思われた涙も漸く止まり悟浄は閉じていた目を開けた。立ち上がり玄関前から部屋へとのろのろとした足取りで戻る。まだ青かった空はいつの間にか茜色に染まっていた。

愚かだと他人は憐れむかも知れない。
逢う事の叶わぬ相手を想い続けるなど過去に囚われていると言うかも知れない。
だが、幸も不幸も決めるのは自分自身だ。
三蔵が不幸だったとは決して思わない。
思えばこれからの自分も不幸だと決める事になる。
ある筈がないと思っていた事は実際には起こっていた。
何を迷う必要がある。
自分の信じた道を行けばいい。

悟浄は開け放った窓の傍に寄り、茜色に染まった空を見上げた。陽は落ちようとしているが、暑さはさほど和らいではいない。外仕事もする悟浄にとって元々暑い夏はあまり好きな季節では無かったが、今日改めてこの先も好きなる事は無いだろうと思った。夏だけでなく春も好きにはなれないだろう。
秋に現われ冬が終わる前に消えた三蔵の姿は、春と夏には何処にも見当たらない。







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