| 「 」 「え?あ、悪ぃ。聞いてなかった、何?」 悟空の遠い目をしたままの呟きを聞き損ねた悟浄が訊ねる。 「『何もしなかった事が正しかったのか、間違っていたのか、どうなんだろうな』」 悟空が悟浄の方を向きながら答える。 「何だソレ」 「三蔵が言ってた」 「三蔵が?」 「うん。俺には何の話かさっぱり分からないけど、悟浄さんには分かる?」 自分の家庭事情を知っていた三蔵ではあったが、あの時代に見ず知らずの他人である三蔵に何が出来ただろう。そう考えると悟浄には分かるとも分からないとも言えず、曖昧な返答で濁した。 「何の話か分かんないけど。でももし三蔵が何かしていたとしたら、きっと三蔵と悟浄さんは会ってなかったよね」 「何で?」 「だってほんのちょっとの事で未来って変わるもんじゃない?よくテレビでも“九死に一生”ってやってるよね?出掛けの一本の電話のおかげで事故に遭わずに済んだ、とかさ」 「・・・まあ、そう言われりゃ確かにそうかも知れねぇな」 悟空の未来云々の話は悟浄にも分かったが、それで三蔵の言わんとしていた事が理解できた訳では無かった。一体誰にとって、正しかったのか間違っていたのかと問うていたのだろう。 もしもそれが自分にとってだとすれば。 目の前に分かれ道がある。 一方を行けば三蔵との出逢いがあり、もう一方を行けばそれは無い。 勿論、選択する時点ではその先に何があるのかは知り得ない。 だが、三蔵との出逢いを知った上でもう一度自分自身で選択出来るとしたら。 自分は迷わず同じ道を選ぶだろう。 例えもう一方の道の先に誰もが羨むような輝かしい未来を約束されたとしても。 自分にとっては正しかったという事になるだろう。 もしもそれが三蔵にとってだとすれば。 自分との事は三蔵にとって苦しいものだったのかも知れない。 出逢わなければ良かったと思っていたのかも知れない。 三蔵にとっては正しかったのだろうか、間違っていたのだろうか。 自分の想いを伝える術も、三蔵の答えを訊く術も、今はもう無い。悟浄の中で様々な感情が次々と湧き上がり渦巻き始めた。どれをとっても負のイメージしか無い感情は、マイナスにマイナスをいくら足そうともプラスにならないのと同じように互いに相殺し合う事なく、次第にどろりとした粘り気のある重さで胸の底に沈んでいった。 暫らく無言が続いている。開け放った窓からは通りを走る車の音や擦れ違いざまに交わす挨拶などが部屋の中にも届いているが、室内を覆う沈黙には何の支障もきたしていなかった。悟空は悟空で何事か考えているか、もしくは三蔵を偲んでいるかで再び遠い目をしており、悟浄は悟浄で沈んだ感情の重みを抱えていた。 そこへ一際大きな甲高い声が響き、二人とも我に返った。腕時計を見遣った悟空につられ悟浄も時計を見ると五時を回ろうとしていた。真夏の空はまだ青く、陽もまだ沈みそうにない。外の子供等の一団の声は遠ざかりつつあった。 「俺、そろそろ帰ります」 悟空が立ち上がる。 「悟浄さんにとっては迷惑だったかも知れないけど・・・。俺は今日来て良かったです。会えて良かったです」 玄関で、来た時と同じように悟空がぺこりと頭を下げた。 「いや全然迷惑じゃねぇよ。オレも会えて良かったと思ってる」 悟浄のその言葉に嘘は無かった。重く沈んだものはまだ消えていないが、それは悟空とは関係無い事である。きっと悟空というこの少年が傍にいた事で三蔵は幾度も救われたに違いない。悟空は真っ直ぐで強さも優しさも持っている。悟浄はそう思った。 「気ぃ付けて帰れよ」 「そんなに子供じゃないって」 そう言って笑った顔はやはり眩しかった。その悟空が扉を開けた後思い出したように振り向いた。 「いっけね。一番大事な事忘れてた。これ渡す為に来たんだった」 差し出された封筒を反射的に受け取った悟浄は悟空の背中を見送った。その場に立ち尽くす。しんと静まりかえった薄暗い玄関で、悟浄は三蔵に対して胸の中で叫んでいた。 あと三年。 あとたった三年、何故生きていられなかった・・・! 応える者のいない叫びが胸に虚しくこだまする中、悟浄を包んでいたのはどうしようもない寂寥感だった。 |