三ヶ月の予定より少し早めに長期出張を終え悟浄は帰って来た。
傷は癒えること無く、新たに噴出す血で溢れそうだった。
その重みで益々動けない。
ただ膝を抱えて痛みに耐えるより無かった。
<唯一人>から拒絶される事に二度も耐えられる人間がこの世にどれほどいるだろう。
幼い頃義母から虐待されて悟浄は育った。
義母でも<母>であって、子供の小さく狭い世界では<唯一人>だ。
やがて大人になり、
それまでの小さく狭い世界を抜け出て、
そして乗り越え、
漸く出逢ったこれが最後だと思える<唯一人>。
悟浄は動けなかった。
だが、そこまで耐えたものが終わる日は呆気なく訪れた。
出張から戻って初めての休日だった。
煙草を買いに出た帰り、悟浄の目に金髪の男が映った。
自分の周りだけ時間が止まったように感じた。
そのまま動けずにいると向こうも気付き、一瞬の躊躇いも無くこちらに向かって走ってきた。
『面倒くせぇ』が口癖でモノグサな男が走っている。
今まで見たことの無いその姿に呆然とする。
目の前で止まったその男は膝に手を置き呼吸を整えている。
尚も呆然としたままの悟浄はやがて顔を上げた男に、
殴られた。
渾身の力を込めて、
殴られた。
*****
本格的なシーズン前だが結構な人がいた。
それもそのはず、すこぶる天気が良い。
風は暖かく穏やかで反対に陽射しは強い。
「おい、俺を見る奴らの様子がおかしい気がするんだが気のせいか?」
隣を歩く男が訊いた。
「そりゃお前、そんだけ盛大に付いた痕堂々と晒してりゃあな」
悟浄は胸元を指差した。
思い出したらしくその男は慌てて手で押さえると外してあったボタンを上まで留め始めた。
気にしていないのかと思ったらただ単に忘れていただけらしい。
殆ど寝ていないのを強引に起こして連れてきたのだから無理も無いが。
「どうりでてめぇがこの暑い中きっちり留めてるわけだ」
恨めしそうに睨まれた。
「脱ごうか?だけどオレの場合前はともかく背中がちと潮風にしみそうだけどな」
更に睨むと男はまた歩き出した。
煙草を出そうとし左右のポケットを探っている。
砂の上に物が落ちた。
本人は一向に気付いていないようだ。
悟浄はそれを拾い上げた。
「また落としたぜ。普通気付ねぇか?」
「気付かねぇな」
受け取ると男はまた無造作にポケットに突っ込んだ。
「だとしてもだ、一週間以上も気付かねぇ奴はいねーだろうが」
「ここに居るじゃねぇか」
全く悪びれた様子も無く答える。
「しかもお前それバッテリー切れてっだろ」
都合の悪い事は聞こえない事に決めたらしい。
横を向き煙を吐き出している。
何を言っても無駄だろうと悟浄は自分も吸うべく煙草を咥えた。
唇の端が痛んだ。
昨日この男に殴られた箇所だ。
『黙って居なくなるんじゃねぇよ』
殴られたあと胸倉を掴まれ怒鳴られた。
言葉を失くしていると、痛ぇか、と訊かれた。
殴られて痛くない訳が無い。
そう答えると男は手を降ろした。
『なら大した事は無ぇ。本当の痛みはすぐには感じねぇからな』
不自然に逸らされた目がこの何ヶ月かの男の気持ちを物語っていた。
「帰って寝る」
不機嫌な声がした。
「はいよ」
先を歩く男を追いつつ悟浄は振り返った。
もうあの向こうに何かを視ることは無い。
痛みを感じる事も二度と無いだろう。
fin