悟浄には親がいなかった。
両親共に彼が幼い頃に亡くなっており、年の離れた兄が悟浄を育てた。その兄も悟浄が一人立ちした今は旅に出ている。自分を学校に通わせ、食べさせる為に働いてきた兄を、悟浄は喜んで送り出した。たとえ離れていたとしても、兄弟であることに変わりはない。
ただ、不都合がないわけではなかった。悟浄の兄は、行き先を特に決めずに気の向くまま世界中を回っていた。向こうからは電話でも手紙やメールでも幾らでも連絡する手段はあったが、悟浄側からは限られている。しかも、急を要する際の手段は皆無だった。
そういった訳で、悟浄のパスポートの連絡先には八戒の名前が書かれていた。空欄だったのを、八戒が万が一の事があったらと書かせたのだった。
とは言え、悟浄も八戒もその万が一があろうとはその時は思いもしていなかった。



待ち合わせ場所に三蔵が着いた時、悟浄は既に来ていた。会社近くの駅前に建てられた何をイメージしたのか分からないモニュメントの周りには、悟浄の他にも待ち合わせとおぼしき男女がちらほら見受けられた。三蔵が近づいていくと、気付いた悟浄はそれまで話していた女と別れて三蔵の元へと寄ってきた。
「場所だけ教えてくれたらいいぞ」
「何で?」
二人で待ち合わせて向かう先は八戒の家である。変な土産を貰った日から何度となく三人で飲んでいたが、今日は八戒の家に呼ばれていた。聞けば八戒は料理好きなのだと言う。三蔵にしても外を出歩くのは好きな方ではなく丁度良かった。
「ああ、あれはお互い待ってる間の時間潰し」
首と目線をほんの少し振り返らせた三蔵に察した悟浄が答えた。その言葉通り、向こうにも待ち人が現われたらしく、手を振りながら駆け出してゆくのが見えた。
「それにどっちかってぇともうちょい色っぽいコの方がオレは好みなの」
聞いてもいないことを悟浄は付け足す。何度も会ううちに当初の苦手意識は薄れていったが、悟浄の自他共に認める女好きには三蔵は閉口するばかりだった。
八戒の家は電車を乗り継いで一時間弱のところにあった。
玄関でエプロン姿の八戒に出迎えられたのには少々驚いたが、テーブルの上に並べられた料理を見ればそれも頷けた。手の込んだそれらは店で出されるものと比べても遜色がない。
「今日は金曜日ですし、ゆっくりしていってくださいね。悟浄も明日は休みですよね?」
「休みだけどよ、今日は?いねえの?」
「ええ、友達と旅行に行ってるんです」
二人の会話に三蔵が部屋を見回すと、確かにインテリアも間取りも男の一人暮らしには見えなかった。だが、誰か特定の相手がいるなど八戒から聞いた事はない。
「実は姉と一緒に住んでるんですよ」
三蔵は八戒に勧められ料理の並ぶ床のテーブルについた。勝手知ったる悟浄は既に座り込んで煙草を吸っている。
「これがまたこいつの姉ちゃんも酒強えのよ」
「もしかしてこの量の多さはそれでですか?」
「そ。こんぐらいなきゃ足りねえだろ」
「いくら何でもこんなには飲めないですって」
来る道すがら近所の酒屋で三蔵と悟浄の二人が買ってきた酒を見ながら八戒が笑う。確かにそれらの量は三、四人で飲む分量ではなかった。500mlの缶ビール二箱に焼酎、日本酒、各種スピリッツがビニール袋二つ分。酒屋の店主が台車を貸そうかと申し出てくれたほどの量を、悟浄がビールを両肩に乗せ、三蔵が肩を外しそうになりながらも両手にビニール袋を持ち二人で運んできたのだった。
夏至を間近に控えたこの時期の遅い日没も二時間ほど前に過ぎ、長い昼間の気配は消えている。初夏の過ごしやすい気温と美味い料理に誘われ、思ったよりも酒の消費量は伸びた。しかし、いかんせん量が量だけにそれでもまだ半分にも届かない。
「結構飲んだんじゃね?」
「でもまだまだありますよ」
「多すぎんだよ。だから言っただろうが」
「腐るモンじゃねえし、残ったら残ったでいいじゃねえか」
「大体、てめえは何事も大雑把すぎだ」
「そういうアンタは細かすぎ。今にハゲんぞ」
今や二人とも“さん”付けどころか、おまえ、てめえ、アンタと互いを呼ぶようになっていた。元来、共に口が悪い性質なのだ。普段はそれを、悟浄は軽口で紛らわし、三蔵は無口の裏に引っ込めているだけなのだった。
「まあまあ。それより、三蔵にも喜怒哀楽があったんですねえ」
「そりゃあんだろうよ。つかオレは怒しか無えような気がするけどな」
「悟浄が怒らせるようなことばかりするからじゃないですか」
「オレが何したってのよ」
「何って、ねえ三蔵?あれ?」
「うわ、寝てるし。この寝落ちの早さはギネスもんだな」
八戒と悟浄の僅か二言三言の会話の間に、三蔵はテーブルに突っ伏して寝入っていた。腹がくちて酒もまわれば週末の体が次に欲するのは睡眠というわけだ。三蔵でなくともこれは致し方ないことである。
「今週は結構ハードそうだったんで疲れてたんですね。寝かしときましょう」
「野郎の寝顔を肴に飲んでもなあ」
「別に見なくてもいいじゃないですか。それとも僕が作った料理は肴にならなかったとでも?」
「いやいやいや」
「冗談ですよ。でも何だかんだ言っても三蔵のこと嫌いじゃないでしょ」
「んーまあな。何でだかな」
「何ででしょうね。決して付き合いやすいタイプじゃないんですけどね」
「無愛想だし」
「目付きも悪いし」
「口はもっと悪ぃ」
突っ伏していた三蔵がくしゃみをした。だが、起きた様子はない。八戒と悟浄は声を殺してひとしきり笑った。
テーブルの上の料理は粗方なくなっていた。三蔵を起こさぬように静かに八戒が片付けてゆく傍で、悟浄は煙草を吸っている。何度言っても油の付いたものとそうでないものを一緒に重ねる悟浄は八戒から手を出すなと命じられているのである。家事全般が苦にならない八戒は日頃からやり慣れており、悟浄がテレビのチャンネルをあちこち変えている間に片付け終えた。その手際の良さはベテラン主婦並みで、それというのも実はこの家ではほとんどの家事を八戒がこなしているのだ。姉もやる気は十分あるのだが、そのやる気は見事に空回りして余計な手間が増えるだけなのだった。
キッチンから八戒が戻り、悟浄の向かいに腰を下ろした。改めて二人でグラスを軽く掲げ合ってから飲む。三蔵は相変わらず同じ格好で眠っていた。
音を絞ったテレビが映すスポーツニュースを眺めつつ、更に二人で小一時間ほど飲んだ。
「さて、帰るとすっかな。そろそろ三蔵も起こせば起きんだろ」
「泊まってったらいいじゃないですか。もう終電も出た後だし、明日は休みなんですから」
立ち上がりかけた悟浄に八戒が言う。悟浄にしてもそれで不都合がある訳でもない。そうだな、と座りなおしたところで三蔵がむくりと体を起こした。きょろきょろと辺りを見回す。
「帰る」
そう宣言して立ち上がった。八戒が先程と同じ台詞を三蔵にも繰り返す。
「枕が変わると寝れん」
「今までそこで爆睡してたじゃねえかよ」とすかさず突っ込んだ悟浄の声も聞こえない様子で、三蔵は帰り支度をし始める。
「しゃあねえなあ」
続いて悟浄も煙草とライターをポケットに仕舞って立ち上がった。
「家も近えしオレも一緒に帰るわ」
玄関まで見送りにきた八戒に、三蔵と悟浄は礼を言って八戒の家を後にした。
外の風は涼しく、酒で火照った肌に心地よかった。ぶらぶらと車通りの多い道まで歩く。ほどなくタクシーはつかまり、乗り込んで行き先を告げた。悟浄と三蔵の家は一駅しか離れていない。
車が走り出して次の信号までのわずかな間に、枕が変わると寝れないと言った三蔵は眠りに落ちた。三蔵の家の正確な場所までは知らない悟浄は、快調に走るタクシーの中で三蔵を起こすのに一苦労したのだった。



悟浄が死んだ。
八戒の話によると、海賊に襲撃された船に悟浄が乗っていたのだそうだ。
海賊と聞けばドクロの旗をはためかせた船に海賊帽を被った船長などをつい思い浮かべるが、近年の海賊事情は様々で、背後にマフィアやゲリラが控える組織もあれば、漁船に乗った元漁師が船を襲うこともある。手段もこれまた様々で、深夜に停泊中の船に忍び込み金品を盗むタイプや武力にものを言わせて航行中を襲うタイプ、更に身代金目的の誘拐タイプなどがある。
悟浄が乗った船を襲ったのは忍び込みタイプで、比較的人には被害が出ないと言われている。なのに何故こんなことになったのかはわかっていない。わかっているのは、現地からそう連絡がきたということだけだった。
八戒との電話を終えた三蔵は、携帯電話を戻し煙草に火を点けた。一本吸い二本吸い、三本目になっても涙はおろか悲しみと認識できる感情は湧いてこなかった。














・3 ・TEXT ・TOP ・5