| カーテンの向こう、窓の外はすっかり夜が明けていた。それでも目覚まし時計が鳴るまでにはまだ二時間ほどあったが、のそのそと三蔵はベッドを降りキッチンへ向かった。 コーヒーメーカーに粉と水をセットし、出来上がるまでの間にまた煙草を吸う。生まれたばかりの朝は穏やかで清々しく神々しいまでの光に満ち溢れ、そして、作り物のようだった。その中でゆるやかに立ち昇る煙とコーヒーメーカーの出すこぽこぽという音だけが、三蔵には本物のように思えた。 その日は酒が水のように体に吸い込まれていった。 連日続く猛暑のせいで補充してもしても水分は不足していたのだろう。だが、やはり酒は水ではなく、飲めばアルコールは体に蓄積される。三蔵の場合、酔う=寝るという図式が出来上がっている。それはいついかなる時も崩れたことはない。 悟浄と八戒の会話は、三蔵には音程のない子守唄にしか聞こえなかった。うとうとの段階は過ぎ、目を開けているのが苦行以外の何物でもなくなった三蔵は寝ることに決めた。 誰に遠慮がいるものか、ここは自分の家ではないか。 三蔵ほど「遠慮」という言葉が相応しくない人間もそうそういないが、誰しも睡魔に襲われている間は思考能力が鈍る。三蔵は腕組みをして俯き、寝る体勢に入った。 その時だった。 「僕が一緒に住んでるのは姉であり、そして恋人でもあるんです」 八戒の言葉がはっきりと三蔵の耳に届いた。 それまで子守唄にしか聞こえなかった三蔵には話の流れが見えなかったが、聞き間違いでないことは確かだった。 衝撃的な言葉を放った当の八戒は平然としている。浮かべた微笑はいつもと変わらないようにも見える。 だが、その笑みのあまりの柔らかさゆえ、そこに至るまでの数え切れない眠れぬ夜と胸を押し潰す苦しみが透けて見えた。少なくとも三蔵にはそう見えた。 「別にいいんじゃねえの?」 悟浄が煙草に火を点けながら言った。煙が目に染みたらしく片目を瞑り顔をしかめている。 「そう言うと思ってました。ほんと予想を裏切らない人ですねえ」 「それはどう取ったらいいワケ?褒められてんの?それともバカにされてんの?」 「どちらでもお好きに」 悟浄がどちらを取ったのかは聞けなかった。携帯電話の鳴る音に邪魔されたのだ。 通話ボタンを押した八戒の手元から凄まじい音がした。うっかり耳元で聞いたなら鼓膜が破れそうなほどの大きさである。次々と物の落ちる音や割れる音が重なり合い、まるで電話の向こうは地震か竜巻のさなかのようだった。 「もしもし花喃?どうしたんですか?何があったんですか?」 音が止んだのを見計らって八戒が問い掛ける。 「しお?しおって料理に使う塩のことですか?それならいつものところにある筈ですけど」 電話の相手はたった今話に出た八戒の姉の花喃らしい。 「今すぐ帰りますからそのままにしておいてください」 そう言いながら八戒は鞄を手に立ち上がった。 「いえ帰ります。絶対に触らないでおいてくださいよ」 相手に言い聞かせて電話を切った八戒は「すみません、お先に失礼します。放っておくと僕の帰るところが火事か何かで無くなっちゃいそうなんで」と三蔵と悟浄に詫びて帰って行ったが、その後ろ姿は少しも面倒そうではなかった。 三蔵の眠気は吹き飛んでいた。悟浄をちらりと見ると、仕方ねえなあといった感じで苦笑している。 「知ってたのか?」 三蔵はテーブルの上のグラスに口を付けたが、中のビールはすっかり温くなっていた。 「八戒の?いや、直接聞いたことはねえよ。けど、そうじゃねえかなとは思ってた。そんな素振りを見せた訳じゃねえけど何となくな」 悟浄が煙を細く吐き出した。 「で、アンタは?八戒のことどう思うワケ?」 「別に。何とも思わねえよ」 「そう言うと思った」 にやりとして悟浄は煙草を挟んだ指でグラスの縁を掴み、残りのビールを飲み干した。八戒を真似た悟浄の言葉の意味を三蔵は聞かずにおいた。どうせその先も八戒を真似るに違いない。 悟浄に答えた三蔵の言葉に嘘はなかった。世間一般の常識や倫理からすれば八戒とその姉の関係は決して認められないだろう。だが、三蔵には二人に対し嫌悪感を抱くことも非難する気持ちも一切なかった。 生まれてこのかた只の一度も誰かを愛したことのない自分より彼らの方がはるかに人間らしい、と三蔵は思った。 ぼんやりと何の感情も湧かぬまま、気付けば三蔵はサーバーに落ちたカップ四杯分のコーヒーを飲み切っていた。時間もいつもなら目覚ましのアラームが鳴り始める頃だった。 三蔵はマグカップをシンクに置いて洗面所に向かった。歯を磨き、顔を洗う。そして仕事に行くために着替える。四杯ものコーヒーのせいでまったく空腹は感じていなかったが、無意識に冷蔵庫のドアを開けた。 そこでは昨夜作ったカレーが食べられるのを静かに待っていた。 |