八戒の元に入る現地からの情報は、都度、三蔵にも伝えられた。
襲われたのは貨物船だった。地元の、船長と顔見知りだという理由で部外者の悟浄が便乗できるような、極々小さな会社の船だった。積荷は島で加工された農水産物。一般家庭で購入される食品で、決して高級品ではない。夕方には積み込みを終え、翌朝の出航に備えて悟浄は夜のうちから乗り込んでいたらしい。
未だかつて襲われたことは無く、これから先もそんな心配などしなかったであろう廃棄寸前の古い船には、積荷の代わりに血痕が残されていた。



何度も名前を呼ばれた。
まるでそれしか言葉を知らないかのように、耳元で、首筋で、胸の上で、何度も何度も悟浄が名前を呼ぶ。低く掠れた声で繰り返されるその言葉は、自分の名前というよりも何かの呪文のように聞こえた。合間に落とされる唇の数はもう数え切れない。
口中に紛れ込む悟浄の髪が鬱陶しく、三蔵は起き上がった。
「邪魔くせえ髪だな。切っちまえ」
向かい合った格好で座った悟浄が、一瞬驚いた顔をした後に笑った。
「それだけは勘弁して」
ひどく柔らかな笑顔で、三蔵は何故か胸が締め付けられるような感覚を覚えた。苦しい。だがそれは同時に温かくもあり、居た堪れなくなった三蔵は手を伸ばして悟浄の頭を抱き寄せた。ごつと音がして悟浄の額が三蔵の肩口に当たる。
「ちょっ!何、いきなり!」
額をさする悟浄は少し涙目だ。唐突に勢いよく引き寄せられたのだから無理もない。鼻も多少打ったようだった。三蔵にしても当たった鎖骨は痛かったが、それでも訳の分からない苦しさよりも見知った痛みの方がはるかにいい。
相当痛かったのだろう、悟浄はまださすっている。三蔵はその手を取り、赤くなった額に唇を押し当てた。一度二度当てた後、鼻へ頬へとずらし、唇に辿り着いた。邪魔の入らない口中を探りながら悟浄の背に手を回すと、最初こそ驚いた様子だった悟浄も同じように、いや、それ以上に深く侵してくる。隙間なく密着した互いの胸は熱いのに、背や腕はさらさらとしていた。夜も深まる程に冷え込みは強くなり、それにつれ下がる室温がそうさせているのだ。触れるそばから熱を持ち、離れるそばから熱を放つ。
どれぐらいそうしていただろうか。唇の感覚が無くなり、肌が冷めるのも追いつかなくなった頃三蔵は悟浄に押し倒された。
「あーもー。何だってアンタは……」
続く「たまんねえな」は、首筋にくぐもって震えた。
未だ痛苦しさは消えず、胸の奥で鈍く疼いている。それは波のように満ちたかと思えば引き、時にうねりながら、最後まで消えることは無かった。

海の中だった。
泳いでいるのでも潜っているのでもなく、ただ海中を漂っていた。右も左も、前も下も、真っ暗で何も見えない。周りには生き物の気配は感じず、たった一人で海の中をあてどなく漂っていた。
頭のどこかで、夢だと認識していた。だが、寂しさや怖さを感じなかったのは、そのせいばかりではない。以前から、そしてこれから先もずっと、この暗い海が自分の居場所なのだと思う程に居心地がよかった。
ふと上を見たのに理由はなかった。ほんの少し首を動かしたことで体勢が変わっただけだったろうと思う。そこには遠く小さな光の点があった。点は少しずつ大きくなり、一筋だった光が太く広がってゆく。海の中から眺める水面は、溢れる光を浴びて薄いピンクや緑、黄色といった淡い色合いが踊る万華鏡のようだった。

三蔵が目を覚ますと、夜は明けていた。カーテン越しの朝日と、きりりと澄んだ冷たい空気が部屋を満たしている。剥き出しの肩が冷えきっていた。それでも寒さを感じなかったのは、背後にぴったり寄り添う悟浄がいるからだった。
穏やかな明るさに、今朝方見た夢はこのせいだったかと三蔵は思った。ベッドを抜け出しカーテンの隙間から外を窺うと、黄金色の朝の中を大群の雪虫が舞い、その羽がちらちらと光っていた。もうじき雪が降る。
ベッドでは悟浄がまだ眠っていた。斜めにずり落ちた布団を直して、三蔵はその中に潜り込んだ。うっすらと悟浄が目を開けたがまたすぐに寝入ったようで、後ろから寝息が聞こえてくる。
暖かい布団と規則正しい寝息は、三蔵を二度寝へと導くのに充分だった。



『悟浄の荷物は現地の警察に保管してあるそうです』
荷物の中にはパスポートも残っていたという。積荷の缶詰などより高値でさばけるはずのそれを盗っていかなかったということは、価値を知らない、もしくはさばくルートを持たない連中だったのだろう。もっとも、シケた積荷のオンボロ船を襲うあたり、既に底の知れた小悪党だという証拠ではある。
『血痕は悟浄の血液型と一致しました』
小悪党と言えども丸腰だったとは考えられない。深夜に銃声が響けば誰かが聞き咎めるはずだが、それが無かったのならば、使われたのは刃物の可能性が高いだろう。
三蔵は立ち上がり、冷蔵庫へ向かった。歩きながら肩に掛けたタオルで髪をがしがしと拭く。帰宅してすぐにシャワーを浴び、身体を拭くのもそこそこで八戒からの電話を取った三蔵は、何も口にする暇がなかった。食事はどうでもいいが、ビールは飲みたい。
冷蔵庫を開け、ドアポケットの缶ビールに手を伸ばす。と、いつもは意識的に視界に入れないようにしている鍋が目に入ってしまった。あれから一度も蓋を開けてさえいない。
電話はいつの間にか切れていた。『じゃあ、また』と八戒が言ったような気がするが自信はない。三蔵は、ツーツーツーという耳障りな音を終了ボタンを押して消した。
缶のプルトップを引き一息に半分近くまで喉に流し込むと、苦味だけが舌に残った。
細切れに入ってくる情報の中に、悟浄発見の知らせはまだ無い。














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