| 朝起きると世界が廻っていた。目の前の物を正面に捉えられない。三蔵は、起き上がったばかりのベッドに腰を下ろし、大きく息を吸ってからゆっくりと吐き出した。原因はすぐ察しがついた。ここのところまともな食事を摂った覚えがない。元々三蔵は食にはさほど興味がなく、忙しさや面倒くささにかまけて一食や二食抜くことなどざらにあったが、今回は少々度が過ぎたようだ。人間の身体は思うほど丈夫でないらしい。 洗面台の歯ブラシと風呂場の剃刀が、三蔵の家にそれぞれ一本ずつ増えた。 「しっかし、アンタの歯磨きは長えな」 同じ頃に磨き始めた悟浄が終えても、三蔵はまだしゃかしゃかと歯を磨いていた。その顔は仏頂面だったが、実際には、機嫌が悪いというよりも半分眠っているからで、歯磨きが長いのもその為だった。三蔵は恐ろしく寝起きが悪いのだ。そんな状態の三蔵に話し掛けても無視されるのが関の山なのは悟浄も勿論知っていたし、返事など端から期待していない。要するに独り言と同じなのである。 悟浄の淹れたコーヒーが冷めた頃、漸く三蔵が歯磨きを終えた。無言でコーヒーを啜る三蔵に向かいに座る悟浄が咥えた煙草の先で口元を指し示したが、一向に伝わらない。身を乗り出して親指の腹で唇の端に付いた歯磨き粉を拭ってやれば、三蔵が心底嫌な顔をした。 「わざわざ起きなくてもいーのに」 「起きたくて起きてんじゃねえ。ドタバタうるせえんだよ」 「あ、やっぱオレのせい? つか、そこは嘘でも『見送りする為に起きた』ぐれえの事言っとけよ」 ごくごく飲める程冷めたコーヒーをずずずと啜る三蔵を見て、「言うわきゃないわな」と悟浄は薄く笑った。 翌日仕事の日に泊まってしまうと、朝出勤前に一度自宅へ帰るのが面倒だなと思う。が、夜中に帰るのもまた面倒で結局毎度泊まっている。 少し早い朝の時間は、清々しくありながらもまだ夜の濃密な空気が奥に潜んでいる気配がした。じきに霧散するその気配が、ゆっくり眠れる筈の自宅よりも狭苦しく一つのベッドを分け合う三蔵の家に引き止めるのだと悟浄は最近気付いた。 腕時計を見るとそろそろ出る時間だった。テーブルの上の煙草とライター、財布をポケットに突っ込み、悟浄が立ち上がった。玄関へ向かう前に三蔵の顔を覗き込む。 「何か忘れてね?」 三蔵が反応する前にすぐに引く。タイミングが遅れると顔面に拳が入ることは学習済みだ。朝から鼻血は勘弁願いたい。中途半端に持ち上げた拳を下げて、三蔵が吐きそうなほど嫌な顔をした。 笑った顔が見たい。 喜ぶ顔が見たい。 そう思うのが普通だと言うのなら、自分は普通ではないのだろうと悟浄は思う。三蔵のそんな顔を見たいと思ったことは一度もない。 靴を履き、玄関のドアノブを掴んだどころで三蔵を呼んだ。もちろん、すぐには来ない。三度目に漸く渋々といった体で廊下の先に現われた三蔵に向かって、悟浄はウィンク付きの投げキスを送った。 逆光の中でもはっきりと見える。 三蔵が死ぬほど嫌な顔をした。 眩暈が幾分か治まったところで、三蔵はいつものようにキッチンでコーヒーをセットした。待っている間に、冷凍庫からパンを取り出しトースターに突っ込む。コーヒーとトーストが出来上がったのはほぼ同時だった。コーヒーにはスプーン山盛り三杯の砂糖とミルクを入れ、トーストにはたっぷりのバターを塗る。食べ物を欲したのは身体のくせに、いざ取り入れようとするとあちこちの器官が嫌がる素振りを見せた。激甘のはずのコーヒーも、流れ落ちるほどのバターも、ほとんど味はしなかった。 ようやく三蔵がそれらを胃袋に収め終わった時には、もう会社へ行く為に家を出る時間になっていた。 たかだかコーヒー一杯トースト一枚の朝食に、四十分もかかっていた。 |