| 一瞬目の前が真っ暗になり、慌てて吊り革を握る。通勤電車の中で貧血で倒れるなどという醜態は晒したくない。三蔵は吊り革を握る手に力を込めた。 這うように会社に着き、自分のデスクで細く長く息を吐き出した。頭も身体も重い。 息を吸っては吐きを繰り返すことに集中にし過ぎて、隣の後輩に声を掛けられていたのにしばらく気付かなかった。その後輩は、いつも近付くなオーラ全開の三蔵を物ともせずに寄ってくる数少ない珍しい男だった。 「何か忘れ物ですか?」 何度目かの問い掛けに漸く顔を上げたものの、訝しげな表情をした三蔵に「今日から有給じゃなかったでしたっけ?」と後輩は重ねた。 そう言われて三蔵は思い出した。確かに今日から5日間有給を取っていたのだ。全く気付かず、しかも体調最悪で出勤してきた自分に腹が立つ。 八戒が穏やかな笑みを浮かべていた。その向かいには悟浄と三蔵が座っている。三人の前には幾つもの料理が並んでいるが、まだ誰も手を付けていない。悟浄は落ち着きなくあちこちに視線を彷徨わせながら、三蔵はほとんど動かずに、二人ともひっきりなしに煙草を吸い、ビールを飲んでいる。様子は違うが、どちらも八戒と目を合わせようとしないところだけは同じだった。 悟浄と三蔵のジョッキが空になり、八戒が店員に声をかけた。 「すみません、ビールください」 その隙に三蔵がちらりと悟浄を見、それに応えて悟浄が素早く首を横に振った。 『何かやったか?』 『してねえよ!』 八戒は、人当たりが良く言葉遣いも丁寧で常に笑顔である。だが、その笑顔が決して見た目通りとは限らないことを悟浄も三蔵も知っていた。腸が煮えくり返る程怒っていても、顔は笑っていられるのが八戒なのである。 「さて」 店員が新しいジョッキを置いてテーブルを離れると、八戒がより一層笑みを深くした。いよいよ本題か。 「二人とも何だか最近変じゃないですか?」 三蔵と悟浄は顔を見合わせた。 「いえ、別に何かあったって逐一僕に報告する義務なんてないんでいいんですけどね。でも、もし悟浄が何かやらかしてそれで三蔵に迷惑をかけているんだとしたら、三蔵に悟浄を引き合わせた僕にも責任はあるじゃないですか」 「何でオレがやらかしたって前提?」 「忘れたんですか? 美人局にひっかかった時のこと」 「美人局?」 どうやら矛先は自分ではないらしい、と漬物盛り合わせに箸を伸ばしていた三蔵の手が止まった。 「あーアレね。つか、アレはひっかかったっつーのとは違くね?」 「どっちでもいいですよ」 ぴしゃりと八戒が遮った。 ニ年程前、悟浄が繁華街で声を掛けてきた女とホテルの部屋に入ったところへ、その女の彼氏だという男が乗り込んできた。美人局の典型的なパターンだ。違ったのは、その彼氏よりも悟浄の方がはるかに腕っぷしが強かったことである。威勢よく乗り込んできた男は悟浄によって見るも無残に叩きのめされた。 そもそも美人局のカモにするならば大人しくて金も持っていそうなのを選ぶべきだろう、と八戒の説明を聞きながらその二人にも三蔵は呆れた。 ここで終わっていれば大した事件ではなかったのだが、この話には続きがあった。 悟浄が叩きのめした男は三下ではあったがヤクザだった。一目で分かる喧嘩の痕に理由を問い質した組長は、悟浄を探し出し面会を申し込んできた。謝罪したいと言う。その組はヤクザと言うより極道と言った方がいいような、義理人情を重んじ堅気衆には迷惑をかけるべからずを規範とする今時珍しい組だったらしい。 もちろん悟浄は断った。なにしろ悟浄は金銭的にも肉体的にも何の被害も被っておらず、無様に腫れ上がった相手の顔だけ見ればむしろ加害者と言ってもいいぐらいだったし、何よりもヤクザの組長から謝罪したいと言われてそれを言葉通りに取れる訳がない。しかし、何度断っても「どうしても気が収まらない、このままでは死んでも死にきれない」という懇願に近い申し入れにとうとう面会を承諾した。 無事面会を果たし、そこで終わるはずだったのだが、まだ更に続きがある。 何が良かったのか悟浄をいたく気に入った組長は「跡目を継いで欲しい」と言ってきのだ。 考えるまでもなく悟浄は即座に断固として断ったが、組長は諦めない。自ら悟浄に電話をかけ、時には家にまで足を運び、頼み込んだ。 気付いた自分が間に入らなければ、今頃悟浄は立派な、かどうかはともかく若頭になっていたでしょうと八戒は言った。 「悟浄はどこか自分を軽くみてるところがありますからねえ」 「何よ、それ」 「まあ、何もないならそれに越したことはないんでいいです。でも、じゃあ二人で何やってるんですか?」 「へ?」 「僕が気付いてないとでも? 最近二人でよく会ってるでしょう」 「いや、それは……、別に大したことでもねえし…、なあ?」 助けを求めるように悟浄が三蔵を見た。 「寝てる」 煙草に火を点けながら三蔵が事もなしに答えた。 驚いたのは悟浄の方で「ちょ、そんな、オレはともかくアンタいい訳?」と慌てた。 「別に隠すことでもねえだろ」 事実、三蔵はそう思っていた。ただ、報告することでもないと黙っていただけだ。 「そりゃそうだけどよ、随分と即物的な言い方じゃね?」 八戒はといえば、一瞬固まったもののすぐに笑みを取り戻した。 「なんだ、そういうことでしたか。それはすみませんでした。やだなあ、早く言ってくれてればよかったのに」 何故か八戒は嬉しそうだった。 それからは飲んで食べて他愛もない話をし、初めの張り詰めた空気はすっかり消えていた。 ジョッキを三杯飲んだところで、三蔵がトイレに立った。煙草半分の間を空けて悟浄も続いた。 悟浄がトイレに入ると、三蔵は手を洗い終わったところだった。二人の他には誰もいない。悟浄は三蔵の腕を掴んで個室に引き込み、後ろ手に鍵をかけた。 三蔵が怒りの文句を言う前にその唇を塞ぎ、振り下ろされるより先に両腕を左手一本でまとめ、空いた右手は後頭部に回した。強引に唇を割り、舌を滑り込ませる。 噛まれそうだなと悟浄が思った時、トイレのドアが開く音がした。唇に替えて後頭部に回していた手で三蔵の口を塞ぐ。そんなことをされずとも、三蔵とて騒ぐつもりは毛頭ない。二人して息を潜めて個室の外の気配に神経を傾けた。 やがて、外の気配が用を足し終えて出て行くと、三蔵は悟浄を睨みつけた。 「何かこうたまらなくなってよ。大丈夫、これ以上はしねえよ」 「当たり前だ。こんなところでされてたまるか」 「……噛まねえ?」 口を塞いだ手を離しながら悟浄が顔を近づけると、三蔵は大人しく目を閉じた。 テーブルでは、なかなか戻らない二人に八戒が苦笑していた。 まさか忘れて出勤してきたとも言えず、「ああ、ちょっとな」と三蔵は引き出しから用もない書類を数枚取り出して鞄にしまった。 「せっかくの休みに会社に来なきゃならないなんて、そりゃあ憂鬱にもなりますよねえ」 先刻の様子を後輩は勘違いしたようで気の毒そうに言った。 今着いたばかりの会社から出れば、外はまだ出勤途中のサラリーマンやOLが大勢歩いていた。仕事に向かう人の波に逆らい駅へ向かう。これから自分は帰るのだと思うと、少し気分が良かった。 しかし、体調が良くなった訳ではない。駅前のコンビニで適当に幾つかのサプリメントと栄養補助食品を買い、隣のコーヒーショップに入った。 アイスコーヒーでサプリメントを流し込み、三蔵は通勤ラッシュが終わり行き交う人が少なくなるまで窓の外を眺めていた。 |