休暇中はとにかく栄養を取って休むと決め、体力を回復することに努めた。だがそれも二日も経てばすっかり元通りになり、三蔵は残りの休みを持て余した。
そもそも今回の有給は、出張から帰ったら旅行に行きたいと言い出した悟浄の頼みで取ったものだ。
『行き先は帰って来てからで。近場でニ、三泊ぐらいだし、今時期ならどこも混んでないだろ』
四日目の昼過ぎ、三蔵は財布と煙草にライター、そして携帯電話だけをポケットに入れ家を出た。
駅の自動券売機で適当な金額の切符を買い、近距離運行ではない各駅停車の電車に乗った。行き先は決めていない。家に居ることに飽きただけだ。適当なところで降り、切符の額が足りなければ降りた駅で清算すればいい。
乗った当初は座席は全て埋まっていたが、市外に出たところで乗客はぐっと減り、三蔵は空いた席に座った。隣市に入る頃には一時的に乗客は増え、そして市外に出るとまた減っていく。
幾度かそれを繰り返すと、もう乗ってくる客や降りる客はどの駅でも片手で余る人数だけになった。顔ぶれは老人だけである。田舎には若者の住んでいる割合も少なく、いたとしても皆車で移動するからだ。
何気なく窓の外を見ると、伸び放題の草木の合間に海が見えた。そろそろ煙草が吸いたくなってきていた三蔵は降りることにした。
降りた駅は無人駅だった。周りには民家は見当たらず、線路脇にも駅舎の外も生い茂った草木があるだけだった。木の板で出来たホームの端に作り付けの灰皿が設置してあるのが見え、三蔵はそこまで歩き煙草に火を点けた。
夏の一歩手前の空は雲一つない澄んだ青い色していた。
ホームのフェンスに背を預け、空を仰ぎながら煙草を吸う。肺に煙が行き渡るのを感じた。
二本目を吸い終える頃、電車がホームに入ってきた。乗降客は一人もなく、ドアが閉まるとゆっくりと出て行った。
線路の上を真っ直ぐに、やがてカーブに沿って曲がり、見えなくなるまで三蔵は見送った。



ぎしりと軋む音がしてマットレスが沈んだ。
壁を向いて眠っていた三蔵は、深い眠りから意識が浮上した。後ろに潜り込んできた悟浄の腕が首の下と腰の上を通って前に回る。後頭部に唇を軽く押し付けられたのも感じた。
同居し始めて半年、夜遅くに帰ってきた悟浄が三蔵のベッドに潜り込むのは稀ではない。そのまま大人しく眠ることもあれば、眠りが浅くなった三蔵を起こし行為に及ぶこともある。及ぼうとして三蔵に拒絶されることも少なからずあった。いや、むしろそちらの方が多いだろう。
「アンタって淡白過ぎね?」
「……普通だろ」
普通がどの程度なのかは知らないが、とりあえず適当に三蔵は答えた。が、悟浄はそれを見抜き「普通って、オレだって普通だと思ってんぞ」と文句を言った。
「淡白っつーか、性欲があるのかすら怪しいよな」
そう言われてみると無いような気がして三蔵は首を捻った。悟浄が芝居がかった態度で嘆いてみせる。
「マジで? かわいそー」
「別に困ってないが」
「違う! かわいそーなのはオレ!」
性欲どころか、食欲も物欲もおよそ欲と名のつくものには興味がないことに今更気付いた。唯一例外なのは睡眠欲だけだ。これだけは人一倍あると自信を持って言える。
「威張んなよ。それ、自慢にならねえだろ」
悟浄に一蹴された。まあ確かにそうだろう。だが、欲はどれにしてもあれば良いというものでもない。三蔵は反論してみた。
「食欲や睡眠欲は、あろうがなかろうが自分一人の問題だ。けどな、性欲は相手がいるとなりゃ二人に関わってくんだよ。違うか?」
違わない。悟浄にしては筋が通っている。
「いいか、オレは誘ったら絶対断るなっつってんじゃねえ。疲れてる時やその気になれねえ時もあんだろうよ。ちなみにオレは無えけどな。だけどな、いくらなんでも一ヶ月近くご無沙汰ってのはおかしくね? 隣に寝ててだぜ?」
隣に寝ているのは悟浄が潜り込んでくるせいでもあるのだが、今はそれを指摘する雰囲気ではない。そのぐらいは三蔵にも空気は読める。
「ずっとお預けくらってるオレの身にもなれや」
ちらりと返す言葉が三蔵の頭を過ぎったが、言うべき言葉ではないだろうと押し黙った。
「一人で処理とか、他所でとか言うんじゃねえぞ。オレはただすっきりしたいだけで言ってんじゃねえからな」
たまに悟浄は鋭い。
性行為が嫌な訳ではない。ただ、面倒だと思う気持ちが勝ってしまうだけだった。
「まあ、ここんとこオレが帰ってくるのが遅いんだからしゃあねえんだけどな」
灰皿に煙草を押しつけて消し、悟浄が立ち上がる。日曜日だがこれから仕事なのだ。
「はあ、さすがに疲れてんなー」
肩を回しながゴキゴキと鳴らす。そして、ソファに座っている三蔵の前にしゃがみ、膝の上に手を置いた。
いつもは見上げることが多い悟浄の顔を少し見下ろした三蔵は、その頬に手を伸ばした。迎えることが多い唇に自分から寄せる。軽く触れて離すつもりが深く長いものになった。
「ったく性格悪いよな。これから仕事行かなきゃならねえってのに」
ぶつぶつと文句を垂れながら玄関に悟浄が向かう。呼び止めて、振り返った悟浄に三蔵はウィンク付きで投げキスを送った。
悟浄はしかめ面で中指を立てて見せた。



あれはいつのことだったろう。
仕事帰りに駅で電車を待っていた時のことを三蔵は思い出していた。
何本もあるホームは、人で溢れかえっていた。そこへ電車が入ってきては出て行き、その度大勢の乗客が乗り降りしている。
どこを見ても人、人、人。老いも若きも男も女も、背が低い者に高い者、痩せているのもいれば太っているのもいる。その大勢の人の顔をぼんやりと見ながら三蔵は思った。
『こんなに人が沢山いるのに、この中にあいつはいねえんだな』
その時悟浄は出張中だった。
『この電車をずっと乗り継いで行ったとしてもあいつのところには着かねえんだな』
悟浄の出張先は海外で、島国の日本から電車で行けないのは当然である。
寂しいとか会いたくなった訳ではない。前日に発ったばかりであったし、また仮にそうでなかったとしても三蔵がそんな思いを抱いたことは一度もない。
ただ当たり前のことを当たり前に思っただけだった。
そして今、三蔵は立ち昇る煙の先の青空を見て思ったのだった。
この空の下、どこまで行っても悟浄はいないのだな、と。














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