夢を見た。
夢の中の悟浄があまりに嬉しそうに微笑っているものだから、無性に殴り飛ばしたくなり、拳を握った瞬間目が覚めた。
開けた目には、いつもと変わらぬ部屋しか見えない。
薄暗い部屋の天井を見ながら大きく息を吐き出すと、カチコチと鳴る時計の音が耳についた。こんなに大きな音だったろうかとぼんやり考える。
ふと気付くと、夢の中で握った拳は現実でも握っていた。強張った指の関節をゆっくり開く。じんじんとした痺れとも痛みとも取れる感覚に、また無性に腹が立った。
拳は現実でも握っていたのに、夢の中で微笑っていた悟浄は現実にはおらず、時計の音だけが耳につく暗い部屋の中で、三蔵は殴る前に目が覚めた事を心の底から残念に思った。



「なあ、ちょっと灯り点けてイイ?」
三蔵が返事をする前に、悟浄が腕を伸ばしてサイドテーブルの上のランプを点けた。ランタン型のそのランプはつまみで明るさを調節でき、寝る前に本を読んだり目覚まし時計をセットする時などに重宝していた。
固く瞑っていた目を開けると、ほの明るい中で悟浄の顔が見えた。微笑っている。
「いいとは言ってねえ」
たまにはいいだろ、と首筋に悟浄が顔を埋める。そして、そのまま首筋から喉元、頬へと唇を移動させながら、三蔵の名前を何度も何度も口にした。
ああ、まただ。
「…何の呪文だよ」
三蔵の吐息に混じった呟きに、悟浄が身体を起こした。離れた身体の間に冷やりとした空気が入り込む。日中降っていた雪は夕方には止み、夜が更けるにつれ冷え込みが増していた。外の尖った冷気が、部屋の中にもそろそろと忍び入ってきている。
肌の上を滑るように掠める冷たい空気に、布一枚身につけていない身体がどことなく心許なく感じた。
「呪文って…自分の名前忘れた?あ、あれか。同じ言葉ずっと聞いてると分かんなくなるっていうやつ」
「…ゲシュタルト崩壊」
「そんな名前ついてんだ、あれ」
つうか最中にそんな色気のない話すんなよ、と不満気な声を悟浄が出し、ゆるゆると動かしていた腰を一気に奥へと突き入れた。不意打ちの衝撃に三蔵が思わず仰け反る。
「目ぇ閉じんなよ」
「今お前とこうしてんのがオレだって分かってっかなー、なんて?」
本気でそう思っているのか冗談なのか、はたまた睦言の類なのか、語尾を上げた悟浄に三蔵は怒りよりも呆れた。
バカじゃねえのか。
開けた三蔵の目にまたしても微笑っている悟浄の顔が見えた。
いつかの真夏の熱帯夜。
達したばかりの脱力した身体をひっくり返され、仰向けになったところに悟浄にしがみつかれた。暑さと息苦しさに離そうとすればするほど、ぎゅうぎゅうと力を込められた三蔵は、腹の上の頭を引き剥がす事を諦めたのだった。ややしばらく経って漸く顔を上げた悟浄の顔はいつもと変わらず、汗も引かない内に今度は向かい合った体勢で二回戦目に突入された事をふいに思い出した。
ねっとりと纏わりつくような重みを感じる暑さの中で吐き出される互いの荒い息遣いは更に熱く、重ね合った身体は水を被ったかのように汗に濡れ、暑さと熱さに溶けそうなほど抱き合った。
お前以外の誰がいるんだよ。
出かかったその言葉の代わりに三蔵は、悟浄の名前を呼んだ。腕を取り、口元まで持ってきた手の甲に唇を付けた後、また名前を呼んだ。次いで、髪を掬い上げそれにも、近づいた悟浄の額、瞼、頬、首筋にも唇で触れた後名前を呼んだ。
節の目立つ指に、大きな掌。鬱陶しい長い髪も、無駄に軽口を叩く唇も、その軽口に紛らわせた本心を覗かせる瞳も何もかも全部。
お前以外に誰が。
目を閉じていても見えない訳がない。
胸の内で呟きながら三蔵は悟浄の名前を呼んだ。
そして静かに極々小さく囁くように耳に吹き込んだ時、悟浄に掌で口を塞がれた。
「もうダメ」
塞いでいる掌を剥がしながら、三蔵はにやりとしてみせた。
「崩壊したか?」
「崩壊しそうなのはこっち」
悟浄が腰を大きく動かしたかと思うと、手を臍の下へと持っていった。握られ、擦り上げられる。
「ッ待―――」
て、と三蔵が言い終えない内に、悟浄が腰と手の動きを早め、性急に追い立てる。
悟浄のムカつくところは幾つでも挙げられるが、何を置いても一番ムカつくのはこういう時だと三蔵は奥歯を噛んだ。
毎度翻弄される。そしてそれが不快かといえば、けしてそうではないのがまた忌々しい。
「待ったはナシ」
「あーヤバいかも」
「…なあ、目ぇ開けてて」
うるせえ、もう黙れ。
その言葉の代わりに三蔵は悟浄の名前を呼んだ。
揺さぶられながら目を開けると、目が合った悟浄が笑みを深くした。腰と左手の動きはそのままに、右手を伸ばし、指先で三蔵の額にかかる髪を梳く。あらわになった顔に満足したらしい悟浄が、より一層鮮やかに微笑んだ。
頂点が迫り、いっそ睨みつけながらと思っていた三蔵だったが、その瞬間はやはり目を瞑ってしまった。
閉じた瞼の裏に、悟浄の微笑った顔が見えた。



昼休憩で一階に降りた三蔵は、同じく昼に出る八戒とばったり出くわし、一緒に食べに行く事にした。
「何食べます?」
問う八戒に、特にこだわりも興味もない三蔵は、
「カレー以外」
と答えた。
「じゃあ手軽にお蕎麦はどうですか?」
会社を出てすぐの信号を渡ったところにある蕎麦屋に入った。昼時の店内は混み合っていたが、出てくるのも食べ終えるのも早い蕎麦だけに、次から次へと客が入って来ては出て行った。
カウンターに並んで座り、八戒は山菜蕎麦を、三蔵はざる蕎麦を頼んだ。程なくして目の前に置かれた蕎麦を食べ始める。
「僕、だんだん腹が立ってきたんですよね」
その声に手を止めた三蔵の前で、八戒は持っていた割り箸を握ったまま折った。
カウンターの向かいにある鍋や丼を並べた棚の、そのまた向こうを見るような表情をした八戒は、折れた箸を手に持ったまま、というより折った事にすら気付いていないかのようだった。蕎麦をすする音に、店員や客の声、その他諸々の雑多な音の中で、八戒の周りだけ時が止まっているように見えた。
「もし本当に死んだのなら、死体でもいいから出て来いってもんですよ」
折った割り箸を握ったままだった手を見遣った八戒は、それを置くと箸立てから新しいのを取った。そして三口ほどすすったが、今度は丼の中身に視線を落としたまま再び声を絞り出した。
「じゃなきゃ、夢枕にでも立ちに来やがれって」
言うなり、また箸を握り折った。
「…そのへんでやめとけ。割り箸が勿体ねえ」
折れた二膳の箸を並べて、てへへと八戒が作り笑いを浮かべたが、それもすぐ消えた。
「悟浄が死んだなんて、僕は信じません」
新しい箸で猛然と蕎麦をすすり始めた八戒を暫し眺めた後、三蔵は自分も残りの蕎麦に箸をつけた。
今日見た夢は夢枕だったのだろうか。
だとしたら、悟浄は何を伝えたかったのだろうか。
八戒に話そうかとも思ったが、結局三蔵は口には出さずにおいた。
「そういえば、三蔵カレー嫌いでしたっけ?」
「…好きじゃねえ」
冷蔵庫にしまったままだったカレーは、連休最終日に片付けた。意を決して蓋を開けてみれば、ところどころ緑色に変色した部分のほかは白い綿のようにふわふわしたカビに覆われ、微かな異臭を放っていた。そのまま捨てたいところだったが、さすがにそれは憚られ、中身は取り出して生ゴミに、鍋は洗って不燃ゴミとして捨てた。
今、冷蔵庫の一番下の棚は、ぽっかりと空いたままになっている。
カレーは二度と作らない。














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