| 三蔵が携帯を差し出している。悟浄は起き上がり、夢と現実の境界線に揺れる頭でサブディスプレイに表示されている名前を見た。夢の続きか、それとも夢はこれの前兆か、その名前を見た悟浄は出るのを躊躇った。だが、その間も着信音は一向に鳴り止まず、いつから鳴っていたのか分からないが余程の事と思われた。深夜の電話に碌な話は無い。通話ボタンを押し電話を押し当てた耳に届いた声はやはり表示通りの人物のものだった。 『悪いな、こんな時間に。寝てたんだろ?』 「ああ。寝てた」 『どうだ?元気でやってるか?』 「ああ。それよかンな話の為にこんな時間に掛けてきた訳じゃねぇんだろ?」 電話の主は無言になり、息遣いだけが手に取るように伝わってくる。悟浄も無言で待っていると、漸く静かに低い声で本題を告げられた。それは悟浄がこの電話をとった時からある程度予想していたものだった。 「そうか」 「いや、オレは行かねぇ。仕事休めねぇし」 「悪ぃな。全部任せちまって」 「その内な」 会話は僅かニ、三分で終わり、終話ボタンを押した悟浄は電話を折りたたんだ。三蔵が水の入ったグラスを持って戻って来る。酷く喉が渇いている事に気付いた。就寝中だった割に室内の温度設定が普段より高めで、うなされながら汗もかいていたようだった。毛布が足元に丸まっており、眠り込んだ自分に三蔵が掛けておいてくれたらしい。飲み干したグラスを受け取った三蔵が背を向けようとした。咄嗟にその腕を掴んで「・・・・・・もうちょい居てくんねぇ?」と言ってしまってから悟浄は後悔した。声が震えている。予想はしていてもやはりそれなりに衝撃はあったようだ。情けなさを感じ悟浄は腕を放したが、三蔵はグラスをテーブルの上に置くと何も言わずに隣に座った。 「・・母さんが・・・つっても血は繋がってねぇんだけどな」 落ち着こうと吸い始めた煙草が短くなった頃悟浄は呟いた。隣で同じく煙草を吸っていた三蔵がぴくと動いた気がしたが、何も言わなかった。声の震えは止まっているが表情の方は自信が無く、悟浄は暗い室内に感謝した。 「電話、兄貴からでさ。その母さんが死んだっつー電話だったのよ」 「死んだ?」 「そ。ずっと入院してたんだけどな」 悟浄は義母の姿を思い返してみた。せめて今ぐらいは笑顔をと思ったが、やはりその顔は泣いており、改めてその原因である自分の存在に嫌気がさした。物心つく前に死んだ父母の記憶が殆ど無い悟浄にとって、家族は腹違いの兄とその母親だけだった。その二人を苦しめ続けて来た自分には悲しむ資格など無いのだと悟浄は自身に言い聞かせるように大きく息を吸った。 話が途切れれば三蔵が立ち上がりそうな気がして、かと言って何を話せばいいのか、悟浄は手を伸ばし触れた三蔵の手を握った。繋ぎ止める、ただそれだけの為に。 悟浄の母は妻では無かった。つまり愛人という事になる。二人に何があったか定かでは無いが、同時に失った悟浄は唯一人残された。そんな自分を引き取った義母は美しく、本当は優しい女だったのだろうと悟浄は思う。ただ、少し弱かっただけだ。無理もない。永遠に手の届かない場所へと夫を奪い去った女の息子の顔を毎日見る事に耐えられる女が一体どれほどいるだろう。次第に壊れてゆく義母からどんな言葉で罵られようと、どんな暴力を受けようと、それ自体は大した痛みでは無かった。悟浄にとって真に辛かったのは義母が苦しんでいる姿だった。やがて憎しみ、恨み、悲しみ、苦しみに耐え切れなくなった義母は、それらから逃れる最後の術として全てを忘れた。夫の事も息子の事も、自分の事さえも。自宅では面倒を見切れず入院させた後、悟浄は一度も会っていなかった。何もかも忘れた義母ではあったが、たった一つ意識の底に残されたものがあったからだ。花でも食物でも衣類でも、紅い色を見ると激しい拒絶反応を起こし、泣き叫び暴れる義母に悟浄の真紅の瞳や髪を見せられる筈は無かった。 最後の最後まで義母が悟浄を受け入れる事は無かったのだった。 そして悟浄は家を出た。ただ一人ずっと自分を庇い続けてくれた兄を残して。残された兄の苦労は計り知れなかっただろう。その兄と偶然会ったのは一年ほど前の事だ。立ち尽くす悟浄に、何のわだかまりも無いかのように話し掛けてきた。今日の電話のように『元気でやってっか?』と。それは傍から見ればどこにでもいる兄弟や友人同士の会話のように見えただろう。 恨み言一つ口にしなかった兄に、その時悟浄はまた一つ罪が増えた気がした。 ぽつりぽつりと話す悟浄の話は前後し、要領が得づらいものだったに違いない。だが三蔵は聞き返す事も問う事もせず、途中詰まる度に力が込められる悟浄の手をただ握り返していた。 窓の外では雪の降る気配がしている。テーブルの上に置かれた物の形はぼんやりとしか見えない。夜明けはまだ遠い。 静かで、曖昧で、長い夜の中で、繋がれた手だけが確かなものだった。 力を込めれば同じだけ返してくる三蔵のその手に、悟浄は自分が一番認められずにいたこの存在を初めて赦された気がした。 |