| ゆっくりと意識が浮上する。それは水底に沈んでいた気泡がゆらゆらと揺れながら水面に浮かんでくるさまによく似ていた。 朝だな、と悟浄は思った。瞼の裏が薄明るい。久しぶりの熟睡に眠るという事は本来こうであったかと思い出した。最近の自分は眠っていたのでは無かった、単に身体を休めたに過ぎなかったのだと思う。薄く目を開け時計を確認した。うっかり目覚ましをかけ忘れたが丁度いい頃合だった。 隣の三蔵は起きなかった。背を向けぴくりとも動かない。狭いベッドに、落ちぬよう隙間無く密着させた素肌は温かいを通り越して汗ばんでいた。名残を惜しんで三蔵の髪に一つ唇を落とすと悟浄は起き上がった。汗を流す為軽くシャワーを浴びて支度をする。煙草を吸いながらコーヒーを飲み、着替えた。その間、寝室に出入りもし、雑多な音もした筈だが、三蔵は相変わらず目を覚まさなかった。初めての事だった。まだ夜が明けきらぬ早朝であったとしても物音で今までは必ず起きた。寝ていて構わないと悟浄は言ったが、どうやら敏感な性質らしく自然と目が覚めるようであった。 悟浄は深く眠る三蔵をそのまま残し、紙とペンを探した。ペンはすぐにあったが紙が見付からない。ポケットに手を突っ込むと丸めた伝票が出てきた。漢字を間違え書き損じたもので、仕方なくそれの裏に走り書きをし家を出た。 昨夜二人で家に帰ってきてからの事は断片的にしか覚えていなかった。だが、夕方家を出たという三蔵の身体はどこもかしこも芯まで冷え切っており、触れる先から痺れるようだった事はよく覚えている。 『・・・ムカつく』 『何が?』 『・・・お前のその余裕たっぷりの態度がだよ』 そう言って眉間に深い皺を刻んだ三蔵の顔がふと脳裏に蘇る。凍えた三蔵の身体の所為にした自分の震えた指先の真実は何があっても言わない。悟浄はそう心に決め、会社までの道のりを急いだ。 ***** 「すっきりした顔してんな。よく寝れたか?」 「お陰さんで」 「よし。今お前に潰れられる訳にいかねぇんだからな」 「ハイ。すんませんでした」 事務所に入るなり社長に言われた。もし昨日自分が頼むままに仕事を与えられていれば間に合わなかった筈で、悟浄は素直に謝った。 「おい、何か変なクスリでもやってんじゃねぇだろうな。お前が殊勝な態度取るなんぞ今まであったか?」 目を丸くした後豪快に笑う。鬼瓦のような顔の社長だが、中身は外見とは正反対だった。 「まあ、この仕事は体が資本だからな。休める時に休んどけ。市内だけだから今日も早く終わるだろうよ」 渡された予定表を見るとその通りで手間のかかる積荷も無かった。 ***** 何の支障も無く夕方には今日の予定を終えて悟浄は帰ってきた。のはいいが、どんな顔をして会えばいいのか戸惑う。とは言え、玄関の前で百面相をしている訳にもいかず思い切って開ける。三蔵はソファに座り煙草を吸っており、近くまで行くと紙を突きつけられた。 「小学生か、お前は」 見ると今朝書き置いた走り書きで、ご丁寧に下に正しく書き直しまでしてあった。 「漢字なんて書けなくったって生きてけんだよ」 「解読するのに五分はかかったぞ」 「解読、ってオレの字は暗号かよ」 「それに近いもんがあるな」 「いんや、それはアンタの目が悪い所為」 この頃には既に二人とも笑い出していた。悟浄は三蔵に近寄り抱き締めた。 「ただいま」 「ああ」 三蔵の返事はやはりそれだけだったが、悟浄の背に腕を回していた。 世の中には科学的に説明出来ない事が極稀に起こる事がある。人はそれを奇跡と呼ぶ。決して出逢う筈の無い二人が出逢い、想いを繋げ、共に居る。これを奇跡と呼ばずして何と呼ぶのだろう。 季節は冬、暮れも押し迫り今年もあと十日余り。 三蔵が現われて二ヶ月が経過しようとしていた。 |